令和4年9月25日 礼拝メッセージ:証集:海外での主のめぐみ―アルゼンチン(1):「出生の秘密」

聖書:

ヨハネの手紙 I:4章7節~12節
「 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」

 

前奏:


暑い夏が過ぎて秋になりました。今回から再び「証」にもどり、アルゼンチでの神様の恵をみなさんと分かち合いたいと思います。

 

私達はブラジルに2年滞在しましたが、夫が所属する東京大学大学脳外科教授から、そろそろ日本に帰国するようにと言われました。それで私達はサンパウロから成田に到着したその足で新しい赴任地、北海道の北見市に行きました。ブルートレインの寝台車に乗り、初雪の景色を見ながら子どもたちと私は大はしゃぎでした。私も久しぶりにフルタイムの現役に復帰しましたので、小学2年生の長男と保育園の息子たちの面倒はとても一人では見きれないので私の両親に手伝をお願いしました。

 

その後、やはり教授のご指示で、広島県の福山市の新市の病院に転勤となりましたが、その任務も終わり私達は埼玉に移りました。夫はやはり外国での仕事を続けたいとの希望でJICAの専門員として就職し海外赴任の機会を待っていましたがなかなかありませんでした。私は週3回都心にでて内科医としての勤務をしていましたので、北海道、広島につづいて両親にバックアップをしてもらいました。

 

JICAの同僚から外国赴任が希望ならば、外務省の医務官になればという話を聞きつけた夫は外務省の面接を受けることになりました。面接に合格し間もなくイラク赴任の打診がありました。お返事の前に数日後、イラクがクウェートに侵攻したニュースが飛び込んできて、イラク赴任のお話は取り消しになりました。しばらくしてアルゼンチンへの赴任が決まりました。

 

アルゼンチンはスペイン語でポルトガル語の知識がまだ残っていたので、ブエノスアイレスの空港についてホテルまで運転手はスペイン語、私達はポルトガル語でさほど問題なく会話ができて目的のホテルにつきました。

 

到着した直後に大使館の方がA 型肝炎になったので夫はその治療の手配などで多忙でした。ブエノスアイレスには日本人学校がありましたが、私達は日本には戻る気持ちがなかったので子どもたちは英語教育を受けさせることにしました。3人ですからとても経済的負担は大きかったのですが、アメリカンスクール(リンカンスクール)に入学させました。(当時、日本人学校は無料でしたがそれ以外は政府からの援助はありませんでした。数年後は日本人学校以外での学費に関しても補助がでるようになったようです。)長男は2年生で体育以外はESL 教室(English as a Second Language)といって英語を母国語としない留学生が英語力を補強するためのクラスに入りました。次男はkindergarten(幼稚園)、三男は4歳でしたのでpreschoolです。3人はすぐに英語もスペイン語も自由に話せるようになり学校生活をエンジョイしていました。

 

一方、私は、スペイン語の個人レッスンを三世の日系女性に週3回自宅で受けました。私がなんとか医学の学びを続けたいと願っていたので、夫が皮膚科の臨床検査室の中のカビ部門に見学してもいいというニュースを持ってきてくれたのでしばらく通う事になりました。バスで片道40分以上かかりましたが、とても親切でスマートな女性がチーフで色々と教えてくれましたが、そのうちHIVの検査が多くなり、危険なのでという理由で残念ながら見学は中止となりました。

 

私達はアメリカの宣教師の教会のメンバーになりました。家庭的雰囲気のバプテスト教会です。

長男の智之は9歳になったある日に、私にこんな質問をしたのです。「ママ、どうしてぼくたちには3人のお爺ちゃまとお祖母ちゃまがいるの?小野はパパの姓でしょう、それに大田はママの姓だよね?じゃ、安野は?」

とうとうこのときが来たと思いました。まずは夫に相談しないといけないのでその時はこう答えておいたのです。「智ちゃん、それにはわけがあるのよ。でも、まだあなたは小さいからよくわからないかも知れないのでいつか話しをするね。」というと「ああ!わかった。きっと安野は教会であったんだね」と自分なりに納得したようで、その後は私には聞きませんでした。

 

私は彼の出生の真実をいつ話そうかと夫と結婚したときから考えてきました。できるだけ早い時期に言わないといけないと思っていましたが夫はあまり積極的ではなかったのです。

 

その後、しばらくたって智之が「ママ、ぼく洗礼を受けたいんだ。」というのです。いつのまにか彼の中に自分自身の思いで信仰を選択するという気持ちが芽生えていたのです。とても嬉しくて夫にそのことを話し、「このときしか話すチャンスはありません。」と迫りました。彼も納得してある夜、下の二人が寝てから3人で話しあいの時を持ちました。

 

「智ちゃん、実はね。あなたに大事な話しがあるの。ママの話をよく聞いてね。パパとママが結婚する前に安野真紀子さんと言う人とパパは結婚していたの。つまり、安野のお祖父ちゃまとお祖母ちゃまの娘なのよ。その人は内科のお医者さんで、パパは脳の研究のためにアメリカのフロリダのゲインズビルにあるフロリダ大学にいてね、その時に二人に赤ちゃんができたの。でも、その真紀子さんはその赤ちゃんを生んだあとに急に亡くなって天国に行ってしまったの。真紀子さんはイエス様を信じていたの。でも当時パパは神様を信じていなかったのだけど、彼女が亡くなってすぐにイエス様を信じることができて洗礼を受けたの。そして安野のお祖母ちゃまもクリスチャンになって洗礼を受けたのね。その時の赤ちゃんというのがあなたなの。安野真紀子さんがあなたを生んでくれた本当のお母さんなの。ママはあなたが1歳3ヶ月のときに鎌倉で会ったのよ。とても色が白くて可愛かったわ。私が智ちゃんのお母さんになりたいと思ってパパと結婚したの。」と一気に話しました。すると、智之は、「え!」と叫んで驚いて椅子から立ち上がりました。

 

「ママはとてもこの話をするのが辛くて、今まで話すことが出来なかったのよ。」というと智之はニコニコしながら「ママ、どうして?ぼくは二人のお母さんが大好きだよ。」と予想もしなかった応え方をしてくれたのでした。そして3人で手をつないで夫が「智之のお母さんをくださって感謝します。そして育てのママも与えてくださってありがとうございます。」と祈りました。

 

彼はそれから自分の部屋に行きすっと眠ってしまいましたが、私はその夜は一睡も出来なかったのです。やっと本当のことを伝えることが出来たという安堵感と感謝でいっぱいでした。でも、智之は優しい子だから私を気遣って悲しい顔もせず反対にニコニコしていたのではないかと不安になり、何度も彼の寝顔を見に行きました。涙の跡が無いかをみましたがその跡はありませんでした。

 

翌朝早く、朝食を作っていると智之が起きて来るなり私にしがみついて泣くのです。

「昨日、パパとママが言ったこと、ぼく、信じられないよ!」と声を出して泣き続けました。

しばらくして、「智ちゃん、ママも信じたくない。できることならもう一度あなたをママのお腹に入れてママの子供として生みたい。でも、みんなあなたのこと愛しているの。それはわかる?」と言いましたら彼は「わかる」とはっきり言いました。「これからは何も隠し事はないの。だからあなたが大事だと思う人には誰にでもこのことを言っていいのよ。」というと「うん」といって、涙をふきながら納得したようでした。

 

月曜日には、私達夫婦は教会の聖歌隊の練習があり、ある日本人のお友達に息子たちを預かっていただいていました。そのご夫人から翌日にお電話がありました。「小野さん、実はね。智之君がこんな話をしたのでびっくりしたのだけど。」と報告してくださったのです。彼女に私は聞いたのです。「その時、智之は悲しそうに言っていましたか?」と聞くと、「いいえ、反対よ。『 僕には3人のおじいちゃまとおばあちゃまがいてね、二人のお母さんがいるんだよ。 』ってすごく誇らしげに言っていたわよ。」私はそれを聞いてすっかり肩の荷がおりたのでした。それまで、どれほど隠していたことで罪悪感を感じていたことでしょう。「神様、有難うございました。」と胸をなでおろしました。

 

その年の夏休みには家族でフロリダの真紀子さんのお墓に行き賛美と祈りをささげました。お墓に行く前に二人の息子たちにも事実を簡単に話しました。次男の義幸は内容がわかったのか彼の目には涙がうっすら見えました。三男の宣道はわかったかどうかはさだかではありませんでしたが、その後は改めて二人には説明はしませんでしたが了解していました。

ゲインズビルのゲイリークロフォード牧師先生が当時の教会員の有志の方々と一緒にメモリアルサービス(記念礼拝)をしてくださり、夕食を共にしたのです。彼の名前は Tomoyuki Damon Onoとミドルネームはその牧師先生から頂いたものです。その中でも最も親しくしてくださったデイビスさんご夫妻が、智之をお茶に招待してくださいました。彼は帰ってくるなり「ママ、デイビスさんってとってもいい人だね。」と満足そうに話してくれました。

 

智之は自分のルーツをしり、自分とは何かというidentityをしっかりと持つようになったのです。智之は今年の10月で40歳になります。彼はミシガン大学では「Aerospace Engineering」(宇宙航空力学)を専攻し、同時に彼は大学生からROTCにもはいりました。ROTC: Reserve Officers' Training Corpsの略。 アメリカ陸軍・海軍・空軍の協力のもとに、将校を養成するために大学で運営されているプログラム。

卒業してからはUS空軍にはいり、現在,中佐として勤務をしています。妻(Abigail)も同じ空軍の中佐で、13歳の息子( Cooper)と9歳の娘( Isabel)の父親です。

なによりもアメリカンフットボールが大好きな一家です。(つづく)

                           

 

後奏:

小野道夫の入信の証:


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