「からし種チャペル」の原点
むしろそうでないかたがたが安心して集ってこられるために立ち上げました。
私が生涯を通して硬く信じていることは、イエスさまは信じる者のためにだけこの世に来てくださって十字架上で死なれたのではなく、私達人類のすべての人々のために永遠の命をあたえるために復活されて勝利をされたと信じているからです。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。
1テモテ1:15 (口語訳)
からし種とは
パレスチナのからし種の木は、3−4mぐらいの高さまで育つことがあるそうです。
ですから、鳥がその枝に巣を作るようですね。
聖書では、オリーブ、ぶどう、イチジクの木は祝福の木で、地上で神のあかしをするイスラエルを比喩的に表しています。
それではからし種はどういう意味があるのでしょうか?
イエス様は「天国はからし種のようなものです」と言いました。
天国とは
ところで、あなたは天国とはどういうところで本当に存在すると思いますか?
天国はあそこにある、ここにあるというのではなく、実に、私たちの今、生きているただ中にあるのだと私は考えています。
今あること、今生かされている状況の中に存在するのだと思います。
そこで「今」という瞬間を感謝をもって全力で生き抜くこと、ここに天国の奥義が隠されているのではないかと思います。
信仰について
からし種は自分が小さいことを、卑下することも、悔やむことも、恨むこともなく、むしろ自分の小ささを精一杯生きているのだとおもいます。
からし種として、あるがままの自分に与えられた小さいながらも喜びと感謝で生きているならば、鳥が宿るほど大きく成長するのではないでしょうか!
弟子達が「イエス様、信仰を増してください。」と言ったように、私もイエス様に自分の信仰を増して下さいと言いたい気持ちです。
でもイエス様は、そういう私に、からし種ほどのほんの一握りの小さな信仰さえあれば、あなたの祈りはかなえられると言われました。
しかし、信仰というものは一瞬にして失われる可能性をもっています。
例えば、イエスさまが十字架にかけられる前の最後の晩餐の席で、イエスさまに向かって
「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。あなたのためなら命を捨てます」とペテロは誓いましたね。
けれども「自分はその人なんか知らない!」と言って3度もイエスさまのことを否認しました。
人間の信仰というものは、非常にもろいものなのです。
それはどんなに信仰深く見える人でも同じです。また、信仰というものは、年月を積み重ねれば自然に強くなっていくというものでもありません。
小さく弱い信仰心でも大丈夫
では、私達はどのように考えたらいいのでしょうか?
「どんなに小さな信仰、取るに足りない、弱い信仰であっても大丈夫」
ということです。
どうしてそう言えると不思議におもわれるでしょうね?
それは、「救いの決め手」というものは「私たち自身の信仰の大きさ」ではなく、私たちの信仰に応えて下さる神様の救いの力の大きさにあるからです。
「私たち自身の信仰」がちっぽけな「からし種ほどの信仰」でもまったく問題にはならないのですね。
ただ一つ、大事なことを忘れてはなりません。
忘れてはならない大事なこと
「信仰」を日常生活の中で働かせてみることです。
それはどういう意味なのかと申しますと「神様を思い切って信頼してみる」ことなのです。
「神様はご自身に寄り頼む者には応えて下さる」と信じてみることなのです。
今日、あなたはなにか不安なことやこうしたい、
うまく行けばいいなと思うことはありませんか?
そのときに、神様に祈ってみてください。
自分の努力や能力だけに頼みを置くのではなく、神様に最善を尽くしていただくのです。
そうして神様とあなたとの信頼が一つ一つ育っていってやがてあなたに信仰とはどういうものなのかがわかってきます。
そして、小さな種は大きな木に成長し、自分のためだけではない、多くのあなたを必要とする人々がこの成長した木の下で憩うことになるのです。
からし種チャペルはイエス様の温かい手のぬくもりを感じながら、私達の日々の成長を目指しています。