5月9日 礼拝メッセージ「イエス様、あなたはどのようなお方ですか?」

礼拝メッセージ:                2021年 58日 

題名:「イエス様、あなたはどのようなお方なのですか?」

聖句:<ヨハネの福音書14章:1節ー9節>
1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろう。 3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 

 

フィリポもトマスも長い間一緒にいるのに、イエス様のことがわかっていない。そして、これは私たちも同じだと思いました。教会に長く通っている人でも、イエス様のことがなかなかわからない。(中略)それは、理解する力がないというよりも、私たちは、やっぱり自分の思いによって生きている。そういうところが、常に身に染み付いています。今まさに、私は霧の中にいたんだ!という感じでした。どこか狭く考えて、どこか自分の思いに固執して。それは、知らぬ間に迷い込むからこその「霧」なのかもしれません。これは、FEBCキリスト放送局の5月9日、日本基督教団石動教会牧師、井幡清志先生の記事ですが、今は8日なので放送内容を聞くことが出来ません。しかし、私はこの命題を頂いて、私なりのメッセージをさせていただきたいと思います。

これは、イエス様が十字架にかけられる最後の晩餐の席でのお話ですね。この話を聞いた弟子たちは、とても不安になりました。これまで三年半の間ずっとイエス様を信じてついて来たのに、いったいこれから先どうなってしまうのかと思うと心配でたまらなかったのです。誰でも先が全く見えないと不安を感じるものです。こういうことは、けっこう私達の日常でも経験いたしますね。そういう時は皆様はどのように対処されていらっしゃいますか?

  • 家族に相談をする。
  • 信頼している先生やお友達に相談する。
  • 先人の名言などで心を落ち着かせる。
  • 専門家に依頼する。
  • 祈って待つ。

ここで、イエス様は

「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と語られました。弟子たちはどういう反応をしたでしょう?

弟子たちは、イエス様がどこかに行ってしまうと恐れたのですね。それに対しての答えは、「わたしは道であり、真理であり、命である」となんとまあ、格言のような言葉を残されましたね。弟子たちはチンプンカンプンでした。

さらに、フィリポがイエス様がどういうお方であるかということさえもわからなくなるほど動揺をしている様子が書かれています。ここに至っては、今までのイエス様との生活で何を学び、信じ、全てを犠牲にしてまで従ってきた事がまるで洪水が押し寄せてきて、全て流されてしまったような絶望を感じている様ですね。

さすがのイエス様もため息をしているかのように語っているように私には感じられます。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。」

これが、二人の弟子、トマスとフィリポだけではなく、全ての弟子たちであり、また私達の姿なのではないでしょうか?

すなわち、私たちがどんなにイエス様を信じていると思っていても、いざ現実の生活の中で問題に直面しますと、信仰が生かされずに、動揺してしまうのではないでしょうか。そんな彼らに対して主は「心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われました。そして、さらに「もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」とまで、信仰の弱い弟子たちを励ましておられるのです。もう一度この原点に私達は立ち返ることが大事なのです。これこそあらゆる問題の解決の秘訣であると信じます。

しかし、そうは言っても、私達は、イエスさまを見たこともない、2000年以上前の歴史上のお方ではあっても、聖書や書物、教会でのメッセージのなかでしか伝えられていない方を果たしてどれだけ分かっているのでしょうね。家族のことも、大事な友だちも、隣の人も現に見聞きしていて会話もしてきている人たちなのに、私達は時として新たな部分を発見することもあれば、勘違いしていたことに唖然とすることもありますね。人を見る目があるとかないとか言いますが、私達の推察や考えが常に当っているわけでもありません。ましてやこの五感で感じられないイエス様をどうしたらもっとよく知ることができて、あらゆる困難な中で、心を騒がせないでおられるのでしょうか?

「私はイエス様と出会いこのように変わりました。」というのが信仰の証なのですが、なかなか教会の礼拝の中では、証を取り入れるところは少ないように思いますし、過去のある時点において、信仰に燃えて、確かに変わりましたと証することは素晴らしいのには違いないのですが、しかし、もっと大事な証とは「今」なのではないでしょうか?

ある日のこと、道夫が「昨日この問題を抱えていたんだけど、イエス様が助けてくれたんだよ。神様は生きておられるよね。しかもそれは僕の祈り以上のものだったんだ。」と言いました。

彼はまた「僕たち、今日は天使のような人にあったよね。神様は私たちのためにその人を送ってくださったに違いないね。こんな話をみんなに伝えたいな〜!」この出来事とは何だったのでしょうか?そしてその天使のような人とはどういう人だったのでしょうか?

町長に立候補していた私は、ある日、道夫と近隣の村に行き、住民に政策のスローガンのチラシを配っていたのでした。途中に、共通の友達が働いているはずのある障害者支援施設を見つけたので彼に会いに行きました。私が玄関先まで歩いていくと、背の高いハンサムな青年が近づいてきて、私の手をやさしく握ったのです。彼は無表情でした。見た限りでは25歳位のようでしたが、そのしぐさはまるで4歳児のような感じでした。私は微笑んで「こんにちは」と挨拶をました。青年は何も言わず、車の中に座っていた道夫のところへ歩いて行って、彼の手を取り、私のところに連れてきたのです。そして、私たちの手を合わせて、握手をさせたのでした。話しかけても彼は言葉を一言も発しませんでしたが、私たちに好意を持ってくれていること、私たちに会ったことを喜んでくれていることはわかりました。そうしているうちに、ケアサポーターがやってきたので、友人がそこにいるかどうかを尋ねましたが、実際には彼はそこで働いていませんでした。帰る道すがら、道夫はその青年は天使だったのではないかと私に言ったのです。きっと彼は私たちがあの時幸せではなかったことを察知していたのかもしれません。実は、彼に会う前に私たちは小さな喧嘩をしていたのでした。仲良くするようにと私たちに示してくれたのだということだったのではないでしょうか?私たちはその青年に心から感謝し、神様にも感謝をしたのでした。

私達が神様をどのように知っているかというのではなく「私たちが神様によって知られている」ということなのですね。神という抽象的なイメージではなく、共に歩んでくださっている存在であることを実感として体験する事ができるのです。自分の中心的な生活からしばし離れて、イエス様のことを思い浮かべることがいかに重要であるかを改めて思わされます。

私達は、イエス様の深さ、高さ、広さを一生かけてもとうてい把握することは出来ないと思います。「私達は、むしろ、神様から知られていて、愛されている存在」であることを今一度確認したいと思います。

どんな困難に直面しようとも、まさに混沌としている世にあっても、揺るがない主がおられることを覚え、神様に委ねて、常に求め続ける信仰を持ちたいですね。ローマ書8:28節の確信をご一緒に唱え、前進してまいりましょう。

ローマ書8:28

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 

おすすめの記事