令和4年11月6日 礼拝メッセージ:証集:海外での主のめぐみ:「ロンドンでのエピソード!」

聖書:

詩篇147:10-11
[主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく 人の足の速さを望まれるのでもない。
主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人。]

前奏:

 

 

ザンビアをあとにして私たちはロンドンに移り、素朴だったザンビアの生活とは対象的な都会の生活が始まりました。みなさんもまず大英博物館を訪れると思いますが、丁度エジプト特集があり大変興味深かったです。ロゼッタ・ストーンを直接見ることが出来たのも感激でした。

 

ホテル住まいをしながらまず住居を探しました。子供たちのアメリカンスクールに近いところを第一優先にして,セイントジョーンズウッド周辺にあるアパートを探したのです。数件回ったところで、ちょうどオーナーである白髪のご婦人が引っ越しの準備をしているところを見せて頂いたのです。リビングのテーブルにそれは素敵な食器がずらりと置いてありました。もし、契約が成立するならすべてを置いていくからとのことでした。お部屋も丁度5人が住めるほどの適度な大きさで,それぞれの部屋も素敵で私はとても気に入ったのでした。夫は大学に行くにはベーカー・ストリートにあるシャーロック・ホームズの博物館の前でバスを降りて、チューブ(地下鉄)に乗り換えていましたので車も必要ではありませんでした。教会もビートルズで有名なアビーロードの近くにあり、まさにアパートから学校も教会も歩いていける範囲内で理想的でした。ここだと思い契約をしたのです。  

シャーロック・ホームズの博物館(ベーカーストリート221b)     

アビーロード 

 

長男はロンドンでの学校生活にとても満足をしていたようで、ザンビアでもクロスカントリーを始めていたのでひき続いてロンドンでも課外活動で練習をしていました。ベルギーでの国際大会にも参加して一人で海外に行く自立心も培う良い機会になりました。一方、三男はある女子生徒からいじめを受けていたようでザンビアでの生活が恋しかったようです。

 

私は「麻酔医の緩和医療セミナー」というテーマで2週間のプログラムがあることを知り、セント・クリストファー・ホスピス(St Christopher’s Hospice)で受講する機会を得ました。この病院はイギリスの医師、シシリー・ソンダース師によって、1967年に設立されたもので、最初の近代ホスピスと言われています。最終日のカクテルパーティーには彼女の挨拶がありました。高齢になられて足が不自由でステッキをついておられました。個人的にお話をするチャンスはありませんでしたが、ひと目お姿を拝見出来たことはとても幸いでした。その後、ロンドンの郊外で小児のホスピスを2件ほど見学をさせていただきました。日本はいまだにホスピスに入る対象は癌の末期とエイズの方ですが、私が訪ねた小児ホスピスは脳神経系の病気の子供たちのホスピスでした。運営費用はすべて皇室はじめチャリティーの募金でまかなっているとのことでした。そこは、子供たちに専門的な緩和ケアと休息ケアを提供するだけでなく、終末期ケアと死別ケアも提供していました。小さな池には子供の名前が刻まれているかわいい石が置いてあったのを見て心がとても痛みました。           

 

その頃、私の父はS字結腸がんの末期を迎えていて、母と兄夫妻に見守られて家で療養をしていましたが、いよいよ床についてしまったのでサンフランシスコの姉と私が交代で介護の手伝いをすることになりました。私は夫と子供たちをおいて、3ヶ月間と2ヶ月間の2度にわたり里帰りをさせてもらったおかげで父の看取りをすることができました。この体験があって将来は在宅緩和医療に従事したいという切実な気持ちを抱きました。夫や子供たちには大変不自由な思いをさせましたが、心からバックアップをしてくれた家族に感謝の気持ちで一杯でした。彼は第一線を退いてからは私が及ばないほど料理ができるようになったのですが、当時はレパートリーが少なく、子供たちは、毎日生姜焼きばかりを食べさせられたようで、いまでも集まると思い出して笑っています。厳しい勉学をしながら主婦業もしなければならなかった夫は日曜日には教会の帰りの昼食は、いつもピザかマグドナルドのハンバーグを食べに行くことでやりくりをしていたそうです。

 

また、私のいないクリスマスとお正月には、教会で夫と子供たちがザンビアから持ってきていた太鼓に合わせて賛美歌を歌ったことや、医務官のご家庭にお食事に招待されたときにみんなでハンドベルを披露して喜ばれたことを聞いて驚きましました。いつもイベントなどを主導していたのは私なのですが、「私がいなくてもやるんだな〜!」と思わされてとても感謝でした。

 

ロンドンはいたるところに季節毎の花が植えられていてとても綺麗でした。住んでいたアパートの目の前には、St. Johns Wood 公園があり、時々散歩をして花の香を楽しむことができました。一番行きたかったクィーン・メアリーズ・ローズガーデンズにはとうとう訪れるチャンスを逃してしまいました。

近くの公園で                      

バラ園

 

15分ぐらい歩けば高級ケーキ屋さんがありました。特にキャロットケーキやチョコレートケーキは抜群の味でした。なんとか真似したいと工夫をしてもなかなかその味には到達はできませんでしたが、私のケーキづくりの目標となりました。

 

教会の皆さんとは隔週の水曜日に祈祷会を家で行っていました。新婚ホヤホヤの若い牧師ご夫妻で、奥様は医学生の最終学年を迎えておられました。私はメッセージが長くなると途中で寝てしまったことが数回あったのです。おとなしく目をつぶっていればいいのですが、そのうち体が傾いて今にも通路の方に倒れそうになって夫に引き戻されるのです。礼拝後に牧師先生が大丈夫かと心配して下さったこともあり,大変失礼なことをしてしまいました。夫や子供たちがどんなにか恥ずかしい思いをしたことかと思うと今さらながら赤面します。そういう事もあって私のメッセージは長くても15分で終るようにしています。 

ブルーのセーターを着ているのが牧師、その右隣が奥様             

ロンドンは色々な方々の訪問を受けお食事を我が家でしていただきました。ザンビアで一緒だった若いご夫妻がロンドンに買い出しに来られた時に、一緒に「くるみ割り人形」のバレーを鑑賞しました。新婚時代のNYでもコンサートやミュージカルを楽しみましたが、ロンドンでもミュージカルはさらに目を見張るものでした。「キャッツ」「ミスサイゴン」「オペラ座の怪人」等はなかなかのパーフォーマンスでした。「マダム・バタフライ」のオペラも観劇でき、ロンドンならではの楽しみが詰まった時を過ごすことが出来ました。また、ザンビアで一緒だったJICAから派遣された医師のご夫妻がタンザニアに赴任するときに立ち寄ってくださり、色々なお話を伺うことができました。

 

とても嬉しかったのは、岡山大学出身で、当時は川崎医療福祉大学臨床心理学科教授で、大変お世話になった故渡邉昌祐(わたなべしょうすけ)先生ご夫妻がロンドンに来られましたのでお迎えをすることが出来たことでした。先生の著書を読んでとても慰められ励まされていました。なかなか医学書というのは、知識は増えても心が癒やされる気持ちになるというのはほとんどありませんでしたが、精神を病んでいる人への共感と優しさが私には伝わってきました。ザンビアに滞在していた時にお手紙の交換をしていただき、色々と病状の相談にものっていただいた尊敬する精神科医だったのです。ご夫妻と一緒にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館を訪れたあとに英国らしい素敵なティールームでお茶を楽しみました。先生も私が元気にしているのをとても喜んでくださったのです。貴重なお交わりでしたが、この時が先生との最初で最後の対面となりました。     

 

ロンドンは物価も高く、レストランは2度ほど行ったきりでした。一度は焼肉屋さんでタンを頼んだのですが、薄くて量も少なく風が吹くとヒラヒラと飛んでしまうようなものでびっくりしたのです。もう一度は私のお誕生日に突然腰痛で立てなくなってしまいお料理ができなくなったので、和食レストランに連れて行ってもらいましたが、何を食べたのか、どういう味だったのかも全く記憶がありません。フィッシュ&チップスで有名なロンドンですが外食の楽しみはほとんどありませんでした。

フィッシュアンドチップス

 

現在の黒田清子さん(当時紀宮様)がロンドンに来られ、館員夫妻にご挨拶をくださるということでした。大使夫人が館員夫人を集められて、「宮様は大変質素なお方なのでみなさんの服装は紺か黒にしてください。」とのお達しがありました。でも、私にはあいにく質素な服の持ち合わせがなく選択に困りました。私としては考えたつもりで「日の丸」をイメージして赤のスーツと白のヒールで出かけました。すると、本当に大使夫人もオールドスタイルの紺のスーツでみなさんダーク一色でまるでお葬式のようでした。その中でのまさに紅一点でしたが特にお咎めはなかったのでほっとしました。順番に丁寧にあの笑顔で一人ずつにご挨拶をくださるのですが、どんなにお疲れかと思いました。お付きの方がまず私達のことを簡単にご説明されました。私には「お子様3人をお連れになってさぞアフリカで大変だったのではないでしょうか?」とお言葉を頂いたのですが、あまりにも声が優しくて小声でしたので難聴気味の私は聞き返してしまいました。それで、どじったと思って緊張してしまい、「そうでもありませんでした。」という情けない受け答えしか出来なかったのです。次は夫に話しかけられたのですが、彼はザンビアの海外青年協力隊の活躍の様子などを話していました。宮様もお付きの方も関心を持たれて相槌をうたれていました。こういうときには夫は、ものおじせず隠れた社交性を発揮するのだな〜と驚いた次第です。

いよいよ、夫が修士の試験の日が近づいてきて、私たちは彼の緊張を感じながらいたのですが、彼が「3日間フランスに旅行に行ってきなさい。」と言ってくれたので、喜び勇んでシルバーのスーパー特急でドーバー海峡を渡りパリへ行きました。子供たちはデイズニーランドに行きたいという年代でしたので、真っ先に行ってみると、フロリダや東京と比べて期待外れでした。帰りの電車で英語を話す旅行者がいて彼に聞くと南フランスは素晴らしいということでした。夢のパリがなんとも楽しめなくて早く帰りたいという思いでした。というのも、シャンゼリーゼ通りで凱旋門が見えるホテルでした。ホテルの朝の食事に行くと美味しいクロワッサンがあったのでさすがパリだと思い、たくさん食べたところそれは有料で非常に高かったのです。経済観念のある長男が「これからは外のお店で買って食べよう。」といって小さなお店でパンと牛乳を買って部屋で食べることにしました。さぞ美味しいレストランがあると思いきやこれも空振りでした。最後の日に小さな通りを歩いていて、中華レストランを見つけてやっとまともな食事が出来たのでした。

パリの凱旋門

 

ルーブル美術館にも出かけましたが広いので疲れ果てモナリザを見て退散しました。やれやれ、こうして家路についたわけです。幸いに夫は無事に試験に合格して私たちもホットしました。

ル―ブル美術館

 

次の任地はエチオピアと言う話がでました。その頃、私たちは大使館の医務官としての生活には何処か満たされないものを感じ始めていました。それにエチオピアは標高が高くスポーツをすると酸欠になり子供たちの成長に悪影響があるということを何かの本で読んだ私は辞退して欲しいと夫に頼みました。しかし、子供たちも日本の教育を受けていないので日本に帰れません。どうしたらいいのかと神様のお導きを祈っていました。以前からいつか集中して聖書を学びたいという願いがあったので、この機会にアメリカの神学校に行こうという気持ちが強くなっていきました。勿論、収入は0でお金が出る一方ですが、アメリカの公立学校は無料であることでなんとか切り詰めればやっていけると考えました。それで外務省には不義理をして退職願いを出し、ミネソタ州のセントポールにあるベテル神学校の入学の手続きに着手したのでした。

 

後奏:

 

付記:
私が管理している家族写真はこのイギリスあたりから見つからないのです。もしかしたら11年前の紀州大洪水で我が家が水没した時になくしたのかもしれません。幸いに今までの写真は兄のところに保管されていたので無事でした。

<お知らせ> 次回はアメリカでの証になります。ご期待ください。

 

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