令和4年10月2日 礼拝メッセージ:証集:海外での主のめぐみ―アルゼンチン(2):「李牧師との出会い」

聖書:

マタイ福音書25章35節-40節
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

前奏:

 

初めてのアルゼンチンの大使館での夫の勤務は今までの病院での仕事とはかなり違っていて戸惑うこともありました。仕事は医務官といって医師であるとともに外交官としての働きも兼ねていましたので彼の経歴においての身分は一等書記官ということでした。私には館員夫人としての役目もあり、大使館における生け花当番、夫人たちとの情報交換と交わりの他に、1ヶ月に1回程度は館員の親睦としての晩餐会がありました。大使ご夫妻の直属の料理人もいてそれはとても今までの私達の生活から比べるとたいへん贅沢なものでした。年に2−3回のアルゼンチンの政府高官や経済界の関係の方々、邦人会の人々をお招きしてのパーティーにも参加をしてホスト役としての接待もありました。あまり社交的でない夫としてはパーティーは苦痛のようでしたが、私は逆に外国の人々とのお話には興味がありとても楽しいひと時でもありました。滞在2年間の中には高円宮(たかまどのみや)殿下と妃殿下をお招きしてのお茶会や晩餐会があり私はお茶をお出しする命を受け少し緊張したことを覚えています。

 

忘年会もあり、その時は会員有志の余興が恒例になっていました。一年目は夫の母から教わった即興のサンバを二人で踊り、二年目は夫はケーナの演奏、私は韓国で習った太鼓を鳴らしながら踊る장고춤(チャンゴチュム)をしました。

 

ある時、一人の韓国の青年が家に訪ねてきました。韓国の牧師である李先生という方をご紹介したいというのです。彼は幼いころ小児麻痺を患い跛行(はこう)していて、補助装具で不自由な足を支えておられるのですが、それが壊れかけていて、しかも古いタイプなので重く足に負担がきているとのお話でした。韓国に一時帰国のとき、日本で良い装具のお店があれば紹介して欲しいとの要望でした。その青年は「最近、先生は交通事故に合い顔に大けがを負っていますのでびっくりなさらないでください。」と付け加えて話されたのです。どんなお顔なのかと思っていましたが、まずはお会いすることにしました。

数日して来られた時はなるほど傷跡がかなり深く強面の感じもしましたが、とてもおだやかな方でした。その後、お互いの一時帰国のスケジュールを合わせて日本でお会いし、夫は御茶ノ水にある装具店に同行して新しいものに代えて大変喜ばれたというのが私達と李先生との交流の始まりでした。その後、再度訪ねてこられた時は、顔の傷が癒えて色白で爽やかなお顔になっていましたのでまたびっくりでした。顔の傷はなおりやすいといいますが見違えてしまいました。

 

李先生は北に追いやられているアルゼンチンの原住民の貧しいインディオの人々のお世話をしながらキリストの福音を伝えておられていたのです。先生のお働きを是非とも拝見したいと思い、信頼しているアルゼンチンのご夫妻に息子たちを預けて3人で夜行バスに乗りでかけました。寒い時期で、おまけにバスの窓が割れていて私が震えていましたら先生は革のジャンバーを脱いで私にかけてくださいました。翌朝、バスから降りると、そこには現地の先生のお弟子さんが迎えにきてくれていました。小さなトラックの後ろに乗り村に行くのですが、舗装されていない乾いた道なのでホコリまみれになりながら長距離を走るのです。途中喉がとても乾いてきました。先生は缶詰を開けて私達に分けてくださったあとに、その同じ缶の中に水を入れて私にくださったので美味しく飲みました。その残りを夫に渡したのですが、彼は汚いと思ったのか「いらない」と言ったのです。すると先生が黙って水をさらに注いで夫に手渡すと彼はそれを拒絶できず素直に飲んだのにはみんなで大笑いをしてしまいました。ずっとあとの余談になりますが、南インドで滞在していた時に、夫は潔癖なところがあるのでご飯とカレーを手では食べられないので、いつもワイシャツのポケットにスプーンを忍ばせていました。これも笑い話になって懐かしい思い出です。

 

途中着いたのは小さな診療所でした。ちょうど男性の虫垂炎の手術があるというので立ち合ったのです。ところが麻酔の機械もないのです。お腹に局麻注射をしただけで医師はメスで切るのでその痛みで患者さんは当然のことうなっています。酸素ボンベからの酸素と点滴だけで見るのも可哀想でした。こんな医療情況で人々は暮らしているのだと思うと身震いしたのです。そこを発っていよいよインディオの住むところにたどり着いたのですが、藁葺き(わらぶき)の家の中に入ると、床は土のまま、お鍋が少しと掃除をするほうきが置いてあるだけでもうびっくり仰天をしてしまいました。

 

先生は泥池を指差して、彼らはこの泥水を飲料水として飲むので何度もお腹を壊すのだと説明されました。夫が以前、アフリカのザンビアの様子を写真で見せてくれたよりひどい情況だと思いました。

  

もちろん診療所もなく1件の小さな薬局があるだけでした。しかも最低の薬も事欠く有様でした。「これはなんとかしないと」と思いながら視察を終えましたが身体はくたくたに疲れました。旅の帰りに、アルゼンチンの北の果ての小さな町に李先生のお知り合いで韓国の洋服店を営んでいるクリスチャンのお家に立ち寄らせていただき、シャワーを浴びさせてもらいましたがその爽やかなこと!生き返った思いでした。それに加え、手作りの心のこもった美味しい韓国料理の食事までご馳走になって一気に疲れが吹っ飛びました。こんなところにも韓国のご夫妻が住んでいるとは驚きでした。李先生は小さな神学校を作って教えておられました。彼を慕う多くの現地の人々に尊敬されていました。首都ブエノスアイレスには奥様と1歳半ほどの長男と生まれたばかりの次男がおられましたが、先生はお仕事で飛び回っておられるのでさぞ奥様は大変だろうなと想像していました。家に戻り、医療よりもまず井戸を掘って安全な水を確保しなければと思いました。

 

時は前後しますが、李先生とお会いしたあとに、前回お話したように私達家族でフロリダに行ったのです。メモリアルサービスが終わってからの食事会のときに、この話をしました。するとある友人が、「アメリカで簡単に井戸を掘る道具を売っている店を知っているから、アルゼンチンに送ってあげようか?」という話がでたのです。これは神様のご計画だと確信し心が奮い立たつ思いでした。幸いに夫は外交官なので税金がフリーで通ります。それで早速その道具を買って送っていただくことにしたのです。そして大使にその旨を話すと大使館の倉庫にしばらく置いていただけるということでした。このような経過があって後、李先生と夫は井戸を掘りにまた村に出かけていきました。その時、私はちょうど長崎大学で熱帯医学の資格を得るために3ヶ月間研修に行っていましたので残念ながら同行はできませんでした。

 

その後いよいよ、アフリカのザンビアに行く道が開かれたので、そのためにも私は熱帯医学を学ぶ必要がありました。夫はアルゼンチンで勤務、私は日本で勉強中なので、私の父に手助けを求めました。アメリカのサンフランシスコに住んでいる姉夫妻のところに滞在して子どもたちの世話をしてもらったのです。姉夫妻には二人の高校生の娘たちもいて、二人共仕事をしていて多忙であったにも関わらず3ヶ月もの間、私達の親代わりなってまだ幼い息子たちを守り育ててくれたのです。

 

私達は初めてこのように家族が離ればなれになる体験をしましたが、私たち夫婦、子供たち双方に平安を与えてくださったばかりではなく、それぞれの地で喜びをも与えてくださいました。また大いに励ましをいただいて、再び家族に会えるというかけがえのない喜びの体験をさせていただきました。こうして、アフリカへの備えを始めることができたのでした。その背後には、私達の家族を愛してこのように助けてくれた姉の家族、私の両親、信仰の友たちを与えてくださった神様のご配慮があったからこそ実現できたのです。神様の御業を称えるとともに、関わってくださったお一人おひとりに心から感謝の気持を改めて表したいと思います。(つづく)

 

後奏:

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