令和3年11月15日 ヨハネによる福音書 講解 第10回 「パンの奇蹟」

ヨハネによる福音書 講解 第10回 「パンの奇蹟」

 

聖書:ヨハネ福音書6章 :1節−14節
1.そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。
2 すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。
3 イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。
4 時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。
5 イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。
6 これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。
7 すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。
8 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、
9 「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。
10 イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。
11 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。
12 人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。
13 そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。
14 人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。
15 イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。

 

6章のアウトライン:

     1.   パンの奇蹟:1-15

     2.   嵐の出来事:16-21

     3.   永遠の命に至る食物:22-29 

 

前回は、ユダヤ人の最も大事な掟である安息日のお話を致しました。ヨハネによる福音書6章の主題はひとつですが、著者ヨハネは3つの出来事を分けて説明をしています。今回は1節から15節までを学びます。

時は、過越の祭りが間近になっていました。公に宣教活動を始められて1,2年経った時の頃です。イエス様の公生涯は約三年間ですが、もう半ばに入っています。イエスさまが行なわれたしるしは、多くの人々に伝わっていたのです。

 

場所は「ガリラヤ湖」です。イスラエルの北部がガリラヤ地方と呼ばれ、ガリラヤ湖はその東部に位置します。北からヨルダン川が流れ込み、湖の南から再びヨルダン川へ水は出て行き、死海に流れ込みます。この南西の湖畔に「ティベリヤ」という町がありました。それでガリラヤ湖は「ティベリア湖」とも呼ばれています。

ガリラヤ湖

 

男性だけ数えても5000人ですから女性や子どもたちを含めると相当な人の数であることが想像できます。最初にyoutubeのビデオを見ていただいたので改めてストーリーの流れは説明いたしませんが、この出来事をどのように解釈するのかというお話をしたいと思います。

 

私は牧師の家庭で育ったことで、幼いときからこの奇蹟をそのまま信じていたのですが、高校生の時にある牧師夫人から一つの解釈を聞かされてびっくりしたことがありました。「実はね、これは奇蹟でもなんでもないらしいという説があるのよ。ここにいる人々は自分のパンを隠していたけれど、一人の少年が自分の食べ物を全部捧げたのを見て恥かしくなって、それで、みんなが自分のパンを出し始めたんですって。」

 

なるほど、理屈としては、まさにあり得ることだし、この子どもがしたことが神様に喜ばれ、群衆も少年の行動に感動して、みんなで解決できた話として考えられないことはないですね。皆さんはどうお考えになりますか?こちらの解釈のほうが、なんとなく心温まりますでしょうか?

 

14節で、「人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言ったと書いてあるのを見ますと、もし、一人ひとりが持っていたパンで空腹を満したとしたら、喜んでイエスさまに感謝をしたでしょうか?イエスさまのことを預言者と認めたでしょうか?この奇蹟を行ったイエスさまを自分たちの王になってもらい、永遠にパンを与えてくれる救世主(メシア)として、かつぎ上げようとしたほどのインパクトがあった場面だったと私は信じます。

ですから、イエス様により奇蹟がおこなったのです。

 

当時の人びとは、ローマの支配で虐げられていて、生活は非常に困窮していたのですから、彼らにとってパンの問題は生きるためには欠くべからざる重大課題であったろうと思います。

 

2018年の統計では、世界では飢餓に陥っている人が8億2,160万人もいると報告されています。深刻な事態です。

また、日本には「衣食足りて礼節を知る」ということわざがあるように、決してこのことは小さな事ではないはずです。

イエスキリストご自身も、その重要性を無視する方ではありませんでした。

 

キリストが荒野で40日断食をして空腹のときに、サタンが次のように誘惑したのを思い出します。

「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

<マタイによる福音書4章:1節−3節>

 

15節に、「イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。」とあります。

 

空腹を満たすことが最終目的ではなかったのです。しかし、群衆や弟子たちもまだそのことには気づいていないようです。

 

「ヨハネによる福音書」が奇蹟の出来事を語るのは、ただ奇蹟が人々を驚かし関心を引くからではありません。

 

イエスさまの心からの願いと真意は一体どこにあったのでしょうか?

次回、ご一緒に学んでみたいと思います。

 

 

後記:
「5つのパンと二匹の魚」の奇蹟のストーリーは、ちょうど私達がアフリカのザンビアから一時帰国をしたときに、所属していた教会学校でミュージカルをしたのですが、長男が小学6年生で、この物語の主役(イエスキリスト)に選ばれたのでした。その時の音楽はこれと同じではありませんが、懐かしく思い起こされます。

お子さんやお孫さんがおられる方は、このアニメの動画と歌を添付致しますので、ご一緒に御覧ください。

 

 

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