からし種チャペルメッセージ 2020年12月27日

  メッセージ 管理者としての使命 

 

マタイによる福音書 251427

「また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。

五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。二タラントの者も同様にして二タラントをもうけた。しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。

だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。』

 

ここで、聖書は、私たちのことをこの地上における旅人であると捉えていることに注目したいと思います。私たちは、天に故郷を持つ者でありこの世を旅している者であるというのです。端的に言えばこの世の生活は「仮の人生」というわけですね。こういうふうに言いますとなんだか今生きているのが馬鹿らしくなると思う方々もいるかもしれませんね。なるほど、クリスチャンは皆そう思っているのでこの世の生活にはあまり関心がなく、信仰だけして天国に入れば良いと思っている人々なのかしら?と想像される人もいるかもしれませんね。ところがそうではないのです。神様からお褒めの言葉をいただけるという楽しみを持つことができて、この世でしっかりと生きて究極的のふるさとの天国はこの目には見えないけれどあると信じて、この世で精一杯感謝して生きていきたいとおもっているのですね。いつか、キリスト教の死生観や人生観についてお話をしたいと思っています。

さて今日の本題に参りましょう。タラントのお話ですね。

ここで、一つ皆様が疑問点というか抗議をしたくなる気持ちになってはいないでしょうか?実は、私は中学時代に非常にこの部分に反発しまして、牧師の父にたずねたことがありました。すなわち、神様が預けられたタラントに差があるのは不公平だという点なのです。「皆、平等に分けるべきではなかったの?」といいました。あげるお金の差に不満を感じた1タラントの下僕は、最初からふてくされてしまったと思いました。しかも、失う危険があるのでお金をそのまま保存しておいたのもわかるような気がしたのです。神様のやり方に対して文句を言ったわけですね。その時、父はこう応えました。

「イエスさまは、25章の15節に「それぞれの能力に応じて」という事を仰ったんだけど気がついたかな?それぞれ違う人に託したのはご主人のえこひいきなんかではなく、しっかりと考えられた上だったに違いないのだね。私たち一人一人に異なった恵が与えられているということなんだね。神様は私たちをよ〜く見ておられて、それぞれ異なるタレントをくださっているのだとお父さんは思っているんだよ。」皆さんはどのようにお考えでしょうか?

すべて同じく分配するというのは民主主義で正しいことなのだと思い切っていた私はこの一言で納得したのです。人というマスで捉えるのではなく、個別的に神様は私達を扱ってくださっているということなのですね。

 

さらに一つご説明したいことがあります。

ここに出てくる、タラントというのは通貨の単位です。1タラントはその当時の労働者の6千日分の賃金に相当する金額であると言われています。安息日や特別の祝祭日を除いて1年に働く日数を300日と考えますと、1タラントは20年分の賃金に相当する金額になるそうなんですね。日本円で考えたらいくらぐらいでしょうか。仮に年収500万円と考えたら1億円です。5タラントは5億円、2タラントは2億円になりますね。これは、ご主人が僕に預けるには驚くほど多額のお金ではありませんか?私達は一生の間どれくらいお金を使っているのでしょうか?計算が苦手なので計算することもできないけれど、考えるだけでも恐ろしいと思ってしまいます。

それほどまでに神様は私達を信頼してお金を託してくださっているのですね。驚きですね。

でも、どうして1タラントの人はそれほどまでにご主人のことを恐れたのでしょうか?昔から「石橋を叩いて渡る」という人は意外と多いですよね。慎重に物事を計り推し進めていく堅実な人のことだとおもうのですが、時々この格言を皮肉っぽく使うこともあります。

 

聖書には譬え話が多いのですが、それには必ず伏線があると言われています。何かを意図しているのですね。当時、イエス様がおられた社会は立法学者やパリサイ人と呼ばれる伝統的なユダヤ教を信じる人々がいて、イエス・キリストをなんとか陥れようと機会を見つけては、罠をしかけたり、すきあれば攻撃をていました。この譬えでイエスさまは、当時の宗教的リーダーたちを「1 タラントンを託された僕」としてシンボル化したのだと捉えることができます。即ち、神様から託されているものを社会に喜ばれる形で、与えてくださった神様にお応えするのではなく、いつも宗教的規範に従って生活を守ることに終始するだけで、真実の意味を探求しない姿について批判されたのではないかということです。

 

今日の私達に適応してみるとどういうことになるでしょうか?

1タラントを託された人のことをもう少し考えてみたいと思います。

世間にはいろいろなリスクのある場合があるので慎重に決めなければなりませんが、「結果への不安」を先回りして考えてしまうあまり、検討することもしないで、また実際に試みることをためらっているというのは非常にもったいないし、残念なことではないかと私は思います。つまり、失敗を恐れるということですよね。しかし、神様が私達の行く道を支えてくださり、守ってくださるという神さまへの信頼をするときに、自分に託された恵みや使命が何であるのかをもっと考えてみたいと思うのです。そして新たな一歩を踏み出しながらより良い毎日を生きて生きたいと願います。

 

さらに、私達の傾向としてそれぞれの才能や情況を比較の目でみてしまうということはないでしょうか?あの人はあんなに恵まれていて、何の不足もないようだがこの私はお金も知識も才能も持ち合わせていないと卑下してしまう。あるいは羨ましさを超えて妬ましくなることはないでしょうか?人の喜びを素直に祝ってあげられない自分、違った意見に対して意固地になって認めないということもおそらく経験していると思います。私たちはこの誘惑からどのように防御することができて、物事を正しく判断し、行動をとることができるかがより豊かな生活へと向かう秘訣ではないかと思います。

 

長い間、日本は中流層が多かったはずですが現在は格差がでてきているようですね。アフリカの間伐と食料の不足で人々はヨーロッパに移動せざるをえないほど貧困になってきています。豊かな水量だったビクトリアの滝が冷え上がってしまっているというニュースを聞いて地球温暖化の危機を恐れます。それに追い打ちをかけてコロナ感染がパンデミックに広まり、世界は大きな試練に直面しています。物質的な豊かさを求め続けたあまり、心は貧困になり、個人主義が尊ばれて、核家族になり、さらに近所付き合いも崩壊し、人々とのコミュニケーションのツールは以前より多くあってもそれを豊かに用いる事ができない状態で益々孤立化している社会になっています。私達が託されている地球の自然をもういちど回復する時が来ていますね。私達のタレントは神様から託されたとても大事なものですから、ご一緒に大切に管理をしながら、みんなが幸せになるために心を注いで参りましょう。

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