令和4年2月13日 ヨハネによる福音書 講解 第21回 「イエス様の最後のメッセージ」

聖書:

イエスさまは、まもなく去っていくことを弟子たちに明確に話されました。このことは弟子たちに何度となく話されたことでしたが、まだ彼らには受け入れることができないままでいました。しかし、いよいよ主イエスを失うかもしれないという緊張が漂う中で、自分たちはこの先どう生きていったらいいのかという恐れを抱いていたのです。

 

16節で「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」と言って「安心していなさい」と仰っています。

 

この「助け主」というのは聖霊を指しています。聖霊は、たとえイエスさまが去ったとしても彼らのそばにいて慰め、共に生きてくださるという存在なのです。

 

20節に「その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。」と言われました。

 

「その日」とは、後に起こるペンテコステ(聖霊降誕)の日のことを意味します。ユダヤ教のお祭りで「五旬節」に相当するのですが、ギリシャ語で「ペンテコステ」と言います。過越の祭りから50日目、つまり、イエスさまが十字架で死なれてから50日目に行われたお祭りに起こったのです。弟子たちが同じ場所に集まっていたとき、天から突然、激しい風が吹いて来たかのような響きが起こったかと思うと、炎のようなものが現れ、一人ひとりの上にとどまると、皆が他国のことばで話し始めたのです。(異言)イエスさまが言われた約束の聖霊が降りるというしるしでした。でも、このようなことを弟子たちは果たして想像できたでしょうか!

 

つづいて、26-27節で「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」と励まされています。

 

聖霊は、主イエスが地上でお語りになったこと、なさったことすべてを弟子たちに思い起こさせるものだと語っています。これは単に記憶に働きかけて思い出させると言うのではなく、むしろ弟子たちに強く働きかけて、今まで以上にキリストとともに生きることができ、キリストの業を行う者としてくださるのだと言う意味が込められています。

 

ところが、私達の側からしてみると「心騒がせるな」といわれてもどうしたらいいのでしょうか?落ちつこうと思えば思うほど、逆に不安がつのったり焦ったりしてしまいます。

主イエスが目に見える形でいて下さるかぎり、自分たちは安全で平和に暮らせるし、信仰も強められることが出来るにちがいないと弟子たちは全員思っていたことでしょう。また現代に生きる私達もそう思うのではないでしょうか?

 

子供の頃、私は母にこうたずねたことがありました。「お母さん、どうして私はイエスさまがいるときに生まれなかったの?それかもし旧約時代に生きていたら、神様の声が聞こえたかもしれないよね?」その時母は「そうなの?そう思うのよね〜。お母さんね、その気持よくわかる気がするのよ。でもね、今は聖霊の時代と言ってね、もっとその時代より神様のことがわかるようになっているのよ。私達は恵まれているんですよ。」とほほえみながら答えてくれたのですが、ちんぷんかんぷんでした。けれども、母が言ったことが少しづつ納得がいくようになりました。

 

事実、弟子たちは、主イエスが地上において御言葉をお語りになった時よりも、はるかに主が仰っていたことを理解することができるようになりました。弟子たちは、神の子が地上に来てくださったのはローマの圧政からユダヤ民族を救い、神の国が建設されると期待していたことでしょう。時代を超えた人類の救いのためにとは、とても想像が及ばなかったと思います。また、主に従ってきたのは、それぞれ自分たちが理想とするキリストの姿を思い描き、その弟子であることで自分の人生を意味づけようとしていたのではないでしょうか。しかし、主が十字架で亡くなった後に復活の主に出会い、そして約束の聖霊が下ることによって初めて、弟子たちはすべてのことが明らかになり信仰を深めていったのです。そして更に、聖霊の働きの中で、主の救いの業のために福音を携えて主の弟子として用いられるという大きな使命を与えられて力強く歩みはじめていったのです。

 

私たちも、キリストを目で見ることは出来ませんし、触れることも出来ません。その言葉を直接に聞くことも出来ません。しかし、聖霊の導きを受けて、聖書に書かれている御言葉が私達に働いて、確かな救いの確信と神様の愛を知るに至ることが許されているのです。

 

31節で「 しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。 」と弟子たちを促します。

 

私たちのために罪に勝利し、聖霊という形で臨んで下さる主は、私たちに立ち止まるのではなく、主の大きな愛のなかで生きていきなさいとおっしゃってくださっているのです。

今日の一日が感謝で溢れますように、希望の日でありますようにとお祈り致します。

レーナ・マリア・クリングヴァル
彼女は、スウェーデン中南部のハーボ村で生まれました。生まれつき、両腕がなく、左右の脚も半分ぐらいしかないという重度の障害を抱えて生まれました。1998年の長野パラリンピック(冬季)の開会式で歌いました。1988年のソウルのパラリンピックで水泳選手として出場しています。彼女の両親は、そんな彼女に愛情を注ぎながらも、障害のない子どもと同じように育て、レーナさんを水泳教室に通わせたり、教会の聖歌隊に入れて、歌の練習をさせました。大学を卒業してから、今度は「ゴスペル」の歌手として歌うようになったレーナさんは、今でも世界中でコンサートを開き、たくさんの人々に感動と勇気を与えてくれています。
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