令和4年2月6日 ヨハネによる福音書 講解 第20回 「新しい戒め」
聖書:

 

前奏:

 

13章は「最後の晩餐」としてよく知られています。

 

共観福音書(マタイ26:17-30、マルコ14:12-26、ルカ22:7-30)にも記されていますが、ヨハネ福音書は、共観福音書とはかなり違った内容になっています。共観福音書では、イエスさまが祈りののち、パン葡萄酒をそれぞれ「自分の体」「自分の血」として弟子たちに与え、記念としました。これは、現在においてもキリスト教が行っている大事な聖餐式として守られています。一方、ヨハネ福音書には、パンと葡萄酒についての言及はありませんが、夕食の時、弟子たちの足をイエスさまが洗う記事があります。これは一部の教会で行われている「洗足式」というものです。

 

余談になりますが、私達家族がアフリカへ医療宣教師として旅立つ時に属していた教会(ホーリネス ヨドバシ教会)の夕べの礼拝で、日本での使命を終えて、カナダにお帰りになる宣教師の先生がイエスさまになり、私達夫婦が弟子になってこの「洗足」の寸劇をしたことを思い出します。アメリカでの滞在のときもバプテスト教会の礼拝の初めのプログラムに、度々5−6分程度の聖書物語を経験しました。みなさんの教会でも取り入れられると素晴らしいと思いますよ。登場人物の気持ちがとてもリアルに感じ取れます。

 

イエス・キリストは、身をもって弟子たちに「互いに足を洗い合うように」と、お手本を示されました。

 

弟子たちにはこれから自分たちの主がどこへ向かっていくのかを全く理解していませんでした。さらに、「洗足」の意味も知り得ませんでしたが、7節で「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」とイエスさまが予告をされていて、「今、わからなくても私を信頼しなさい。」と言われたのです。私達は聖書の言わんとしていることや、イエスさまのお心を適確に知ることはなかなかできません。しかし、いつか、何かの機会に少しずつわかるように導いてくださるのですね。求めていれば、必ずわかる時がきますので焦る必要はありません。

 

イエスさまご自身が弟子たちのために汚れた足をまるでサーバント(召使い)になったかのように丁寧に洗ってくださる場面をイメージする度に、心を込めて弟子達に愛を現そうとされたことに大きな驚きと感動を覚えます。

 

また、イスカリオテのユダの裏切りを知りつつも、どのようなお気持ちで彼の足を他の弟子たちと同じように丁寧に洗われたのだろうかと考えてしまいます。

皆さんはどのように感じていらっしゃいますか?

 

多くのクリスチャンはもしかすると否定をされるかもしれませんし、この著者ヨハネも決してそうは思っていないことがわかるほどにユダを非難していますので、私の考えとは違うことをまずお断りしておきます。が、しかし、私はあえて、ここにこそ、主の深い憐れみと慈愛、そして希望を感じるのです。この先、ユダが主を裏切り、どのような死に方であったにせよ、きっとイエスさまは涙して彼をしっかりと抱き上げられたであろうと私は信じたいのです。誤解しないでいただきたいのは、だからといって、ユダの罪が軽いとか、イエスさまが十字架にかかるためには必然的にユダのこの行為が必要であった(必要悪)などとは決して思ってはいません。罪であることには間違いないのです。そしてそうすることを選んだのもユダ自身であったのも事実です。27節で「この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。」と書かれています。サタンの存在についてはここでお話は避けますが、究極的にイエスさまの十字架はサタンに勝利したということだけは確かな事だったのです。

イエスさまは罪人のために十字架にかかられたのですから、このユダの罪も赦されたに違いないと私は思っています。

 

さらに、私の想像を広げると「もし、ユダが弟子たちの中で自分の悩みや不満を分かち合える友(弟子の仲間)がいたら、あのような恐ろしい選択をしないでも済んだのではないか?」とふっと思うときがあります。現代の時代も私達の周囲に理解してもらえず、相談もできず、よりどころのない人々が孤独に陥り、やがて失望して自らの命を絶つ方も少なくないのではないでしょうか?又、近年にみられるように、残虐な犯罪へと自らの人生を破壊してしまうことがあることを思います。私達はお互いに分かち合うということが非常に大事なのだと思います。

 

イエスさまは34節で、私たちに新しい生き方を語っておられます。

「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 」と遺していく弟子たちに心を込めて語っておられます。

 

では、古い、いままでどうりの「いましめ」とは何だったのでしょうか?

一言で言うならば、「モーセの律法」といえます。

今までも、モーセの律法を守る律法学者やパリサイ人との議論があったように「安息日」の考え方にも違いがありましたね。

 

マタイ22:36-39には、ある時一人の律法学者がイエスさまに質問しました。「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』とイエスさまはお答えになりました。これは申命記6:5とレビ記19:18にも記されている言葉です。つまりこの教えはイスラエルの人々が「初めから受けていた古い戒め」であったことが分かります。ということは、2つの戒めは矛盾してはいないことがわかります。では、どこが違うというのでしょうか?

 

この古い戒めには、神と人間との間に交わされた契約(約束)という意味が含まれています。つまり「人の義の行為」が主体なのです。いわゆる「〜をしてはいけない」という規則です。しかし守ろうと思えば思うほど、守ることが出来ないというもどかしさや弱さを経験するのではないでしょうか?ここに古い戒めの限界がありました。けれども、だからといって、この新しい戒めが私達にとって実行不可能なものであるとするならば、古い戒めと同じく絵に描いた餅に過ぎません。

では、どうすればいいのでしょうか?

 

「わたしがあなたがたを愛したように」とイエスさまご自分を模範にしなさいと言われました。ということは、イエスさまが私達をどのように愛してくださったのかをまず知らなくては、愛を実践することはできないということです。どんな簡単なことでもやり方を知らなくては成功しません。私達は、今までヨハネ福音書を読んでまいりました。思い起こしながらリストアップして見ましょう。

 

1)イエスさまは相手の悩みをじっくりと傾聴してくださり、理解してくださいました。

2)願いをラザロのケース以外は迅速に行動をとってくださいました。

3)私達の痛みを知り、共感を示してくださいました。

4)従来のおきてを破ってまでも、神の御心を信じて奇蹟を行ってくださいました。

5)間違いを正しく主張されました。等など。

 

私達にもできそうでしょうか?自分たちのニーズには敏感ですが、周りの人々に対してはそうではないことに気付かされます。

 

聖書には「共に」とか「互いに」という言葉がよく出てきます。人は一人では生きていけない、相手を必要とする存在であることを意味します。「互いに愛し合う」対象は、私達のすぐ近くにいる人びと、その他に利害関係はないけれど、私達の愛や助けを必要としている人びとということが言えると思います。

 

古い戒めには罰や報いがありました。しかし、もうそのようにビクビクして生きることはないのです。信じきれない、愛しきれない私達の弱さを充分にご存知なイエスさまですので、素直にそれを認めて、新たな上よりの力を与えていただいて進んでまいりましょう。

 

後奏:

 

お知らせ:
南太平洋のトンガ諸島で15日に海底火山の大規模噴火がありました。トンガ政府は声明で3人の死者と14人の負傷者を確認したとし、火山灰と津波の影響で「国民の約84%(にあたる約9万人)に被害が及んだと推定」されると報道しています。私が住んでいる串本町にその影響で津波90cmほど押し寄せましたが、幸いに被害はありませんでした。

トンガは阪神・淡路大震災の際には2000万円、東日本大震災では900万円の義援金を送ってくれたそうです。色々な団体で募金を募っています。私は高知県の幡多(はた)郡黒潮町の有志(PTA教育委員会がまとめ役)のトンガの子どもたちにランドセルを贈る活動が5年目を迎えていて交流があることを知りました。このたびの災害で少しでも助けたいとすぐに募金箱を町に設置したという記事を読み、さっそく教育委員会に問い合わせをして、このような気持ちの交流ある町からの寄付金はとても心が温かいと思い、少しばかり寄付をいたしました。もし、寄付のお気持ちがありましたら私のところまでお問い合わせください。確実に責任を持ってお送りし、経過を報告させていただきます。金額の大小は問いません。

メイル:onomegumi99@me.com    携帯:090-4901-7608

 

最後の晩餐
ミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に隣接するドメニコ会修道院の食堂に巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチが1495年から1497年にかけて描いたフレスコ画「最後の晩餐」は、芸術史に新しい時代を開いた重要な作品です。教会と修道院は世界遺産に登録されています。

 

 

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