令和4年4月3日 ヨハネによる福音書 講解 第28 「私の羊を養いなさい」

聖書:

 

前奏:

 

21章は、弟子たちが使命を継続していく結びの部分(エピローグ)になっています。

数名の弟子たちは、テベリヤの浜辺で漁をしていましたが何も取れずにいました。

イエスさまは、弟子たちが一晩中漁をしても何も獲れなかったことを知っておられました。

参考:テベリヤの海は別名ガリラヤ湖のことを言います。

 

ところで、聖書を聞き慣れている方々には、このお話は似たような記事があることにすぐ気がつかれたと思います。そうですね、この奇跡はルカによる福音書の5章にある「魚の大収穫」と類似しています。この奇跡によって、ペテロと他の弟子たちは、イエスさまを全く新しい視点で見るようになり、イエスさまの弟子となる大きなきっかけとなったのでした。

 

21章では、再び弟子たちは、復活の主にお会いして、彼らがイエスさまとの出会いの原点に戻され、いよいよ新しい使命へとすすんでいくことになります。

 

ここで面白い光景を目の当たりにします。

7節にあるように、著者のヨハネは、浜辺に立っている人がイエスさまだと気づいたので、ペテロに告げたのです。すると彼は自分の上着をきて海に飛び込み、岸まで泳いで行ってイエスさまに会ったとあります。ペテロはどうして泳ぐのにわざわざ衣服を着て海に飛び込んだのでしょうか?本来ならば、泳ぐためには裸のほうがはるかに自然であり楽なはずですね。

 

私が小学生の時、日曜学校の先生がこう説明をされたのを覚えています。

「ペテロさんは、イエスさまにお会いするのに、裸ではとても無礼になるし、しかも裸では恥ずかしかったのでしょうね〜。」私は十分納得をしたのですが、なにかそこにはもっと深い意味があるのでしょうか?皆様はどう思われますか?

 

2節以降で、弟子たちに魚とパンを与えたイエスさまは、ペテロに「羊を養うこと 」について話をされました。まず、イエスさまは「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と問いかけられます。ペテロは17節で「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」と答えます。そして次に、イエスさまは「わたしの羊を養いなさい。」と言われたのです。イエスさまが望んだ弟子たちの使命とは「羊を養う」ということになります。

 

ここで、「使命感」と「愛」とどうつながるのかという命題をみなさんに問いかけたいと思います。みなさんの人生で、どちらが優先することだとお考えになりますか?それとも2つは関連がなく、別個のこととして捉えられているのでしょうか?

 

「イエスさまの羊を飼う事」の使命が弟子たちに与えられました。しかし、イエスさまから与えられた使命に生きるというのは、弟子たちの理想、自己実現を目指す生き方とはおよそ違っていましたね。弟子たちは今、それにきづかされようとしています。

 

イエスさまとともに過ごした3年半、予想もしなかった主の十字架と死で失望し、恐れていた弟子たちの前にイエスさまは復活をされて、ここで、三度目に弟子たちに現れたのです。

そして、この海の岸辺で弟子たちのために火をおこし、魚を焼き、パンを用意して彼らを労(ねぎ)らわれたのでした。

 

皆さんにとって使命ってなんでしょう!

使命というとなにか偉大なことをするという風に考えてしまうかも知れませんが、そうではありません。もうすこし柔らかい表現で言い換えれば、ご自分の人生設計の目標、或いは夢の実現と考えてもいいかも知れませんね。そしてその使命を実現するためのモチベーションが一番大事であると思いますが、それはどういうものでしょうか?

 

抽象的な表現かも知れませんが、私は「愛」だと思っています。

なぜなら、たとえ、どんな立派な使命を持っていて、知識を追求し綿密な計画をして、成功し人々のために貢献をして社会的に認められたとしても、その遂行している人に、温かい血が流れていなかったとしたら、世の中では称賛されたとしても、神様に果たして喜ばれるものになるだろうかと考えるからなのです。

 

イエスさまが「私の羊を守り養って欲しい」と弟子たちに三度も懇願しています。

羊を養うためには、餌や環境をよくするだけではできないのですね。

羊は生きています。従順な羊だけではありません。羊たちを成長させるには、羊飼いは、心を痛める事が多く、犠牲、中傷や誤解のために疲れ果て、ついには養うことを諦めてしまうこともあると思います。サタンの攻撃を受けて羊をとりさられるという事態を招くこともあります。しかし、イエス様と出会ったときのあの感動、愛された日々の感謝を毎日思い起こしながら、前を向いて今を真剣に生きるとき、そして未来へと歩むとき、私達の中に存在する愛は主によって大きく成長し、広がりを持ち、やがて私たちの真の意味での使命に生きることができるようになると信じます。

 

イエスさまはまずペテロに「私を愛するか?」と言われたのは、他の何にもまして、そのことが一番根本であったからなのだと私は解釈しています。

 

ペテロはやがて、大胆に人々に福音を告げしらせ、投獄され、最後は逆さまの十字架で殉教を遂げました。人々に愛を注ぎ、育て、そして艱難の中に、喜んで天に凱旋していきました。

 

一方ヨハネは、殉教することなく長生きをしたと伝えられています。かれらは違う人生をあゆみましたが、イエス様の「私の羊を養いなさい」という使命をそれぞれに全うしたのです。

 

今回でヨハネ福音書の講解メッセージは終わります。

ヨハネによる福音書の内容の約90%は,他の福音書に記録されていないものです。ヨハネが報告した7つの奇跡のうち5つは,他のどの福音書にも記録されていません。マタイ,マルコ,ルカはガリラヤ地方におけるイエスさまの教えについてかなり多くの記事を記述しましたが,ヨハネはユダヤで起こった出来事を多く載せています。

 

ヨハネの福音書は、そのおもなテーマの幾つかには,神の御子としてのイエスさまの神性,キリストの贖い,永遠の命,聖霊,他人を愛することへの重要性を強く説いたと言われています。

 

ヨハネの大きな貢献の一つは,救い主が捕らえられる前の数時間における弟子たちに対する主の教えをつぶさに記録したことだと評価されています。ヨハネ書には、実際のゲツセマネで主が苦しまれた夜にささげられた人類の執り成しの祈りの描写はありませんでしたが、弟子たちに語られたことがらが、後の弟子たちの心と魂に深く刻まれることになりました。

 

私達はイエスさまに似るものとしての使命が一人ひとりにあると思います。それは、私達の身近な周りの人に関心を持ち、気遣い、その人の喜びを共によろこびあえる、悲しみにそっと寄り添いながら手を貸すことができる愛の「コイノニア」(分かち合い)を、今日と言う日に自らが一歩を始めることなのではないでしょうか?

 

ウクライナの犠牲者、またロシア側にも犠牲者がでています。どうか戦争がどのような理由であっても許されないこと、許してはいけないことを心に刻み、すみやかに終戦することを願ってお祈り致しましょう。

後奏:

 

ご報告:

ハンガーゼロのバナーが完成し、募金箱が整えられました。これから、街頭募金活動とともに、病院、会社、施設、整体医院、学校、喫茶店、お店、お琴の教室内に1ヶ月の期限付で募金箱をおかせていただけるようにお願いし、すでに承諾を受けております。

また、地元の方がたがいち早く持参してくださったり、遠方から口座に入れてくださった方もおられ、大変励まされております。有難うございました。

また、昨日、小野道夫医師の「認知症講演会」をズームで集まってくださった市民団体が、募金をすませてくださったとの報告がありました。皆様に心から感謝申し上げます。

金額はお気持ちで宜しいのです。1円から札までご自由に不特定多数のかたが入れていただけるようお願いしています。

ただ、残念なことには、銀行、郵便局がどんな人道主義的な募金活動でも硬貨を取り扱うのに手数料を要求していることです。このことは、非常に困難をきたしており、社会問題になっています。特別の団体などには無料にしてくださっているところもあるそうですが、小さな募金活動をしている私達には適応されません。国や地方自治体に市民が声をだして、このようなことがおこらないように善処をしていただきたいと願います。

募金活動期限は5月31日といたします。よろしくご協力お願いいたします。

連絡先:onomegumi99@me.com
携帯:090-4901-7608

〒649-3510和歌山県東牟婁郡串本町サンゴ台1060-144

窓口:小野恵 

振込口座:きのくに信用金庫 串本支店(033) 
     口座番号:8229795 普通口座
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