ヨハネによる福音書 講解 第17回 「ラザロの死の意味」
前奏:
マルタとマリヤの姉妹とイエスさまは親しい関係にありました。マルタの家はベタニヤにあり、その住まいはエルサレムから三キロメートルのところに位置していました。イエス様と弟子たちは、エルサレムに来るたびにこの家に滞在し、しばらく休息の時を持っていたようです。
11-15節の会話で見られるように、弟子たちはまだこのときもイエスさまが何をおっしゃっているのかわからず混乱しています。愛されているラザロのためにすぐには行かず、あえて二日滞在して、ラザロが確実に死ぬ時を待っておられたのですから、家族のマルタ、マリアの不安と恐れ、さらにイエスさまがこられず、弟のラザロが死んでしまったときの失望はどれだけ深かったか容易に想像できます。弟子たちでさえイエスさまの行動がとうてい信じられなかったのです。
注)ラザロという名前の意味は「神が助ける者」という意味です。
神様のご計画や意図することは、私たちの常識や考えで想像しかねるという場合が度々あり、信頼しようとしても不安がつきまとうということはよくあることです。
しかし、私たちが神様との関係を成長させていくには、神様の声、すなわち聖書のみことばを知るだけではなく、その意味を理解しようとたえず思いを深め、それにまず従ってみるという決心をすることが肝心になります。恐れが先にたつのはむしろ自然なことなのですが、未知に向かって「実験してみよう!」という踏んばりが信仰の成長にも必要ではないでしょうか?
この後、死んだラザロが生き返った噂が流れるとイエスさまの人気は最高潮に達します。イエスさまがエルサレムに入られる時、人々は大歓迎で迎えました。なぜなら、ラザロが死より生き返ったということは、イエスさまこそが神の子であることの証明であると共に、この永遠のいのちがイエスさまの内にあることを証明するものだったからです。彼らは、イエスさまがエルサレムでもさらに奇跡を行い、ユダヤの王となり、ユダヤの国の独立を宣言するものと期待したのです。
律法学者やパリサイ人たちは、自分たちの良い行いによって、天国の門を開くことができると努力をしていましたが、罪の無い神の子の命が支払われることによってのみ、この天国の門は開かれるという神様のご計画を知ることができなかったのです。
私達はこれまでヨハネの福音書の中で「七つの奇蹟」すなわち「七つのしるし」と言われている記事について学んできましたね。これは単に完全なる7という意味だけではなく、その奇蹟の出来事の中に、深い意味が隠されているからなのです。
(1) カナの婚礼において祝福のぶどう酒がなくなってしまった。
(2) 役人の息子が病気で死にそうだった。
(3) 38年間もの長い間、病気で伏せっていた。
(4) 五千人の人々の食事がない。
(5) 弟子たちが乗り込んだ舟に突然の強風が襲い、今にも沈みそうになった。
(6) 生まれながらの盲人が物乞いをしていた。
(7) 愛するラザロが死んでしまった。
ここには人間の力ではどうにもならない現実が記されています。私たちが人生においてぶつかるさまざまな局面を表していると言えるのではないでしょうか?結果を見てみますとこのようになります。
(2) 病気で死にそうだった息子をいやされた。
(3) 38年間病気で伏せっていた者を歩かせた。
(4) 群衆に有り余るほどの食事を与えられた。
(5) 嵐を静められた。
(6) 生まれながらの盲人の目を開かれた。
(7) 死んだラザロをよみがえらせた。
このラザロの奇蹟には、以前の奇蹟とはまた違った意味が見えてきます。病気を癒すという今までの奇蹟ではなく、ラザロの病気がなおらずその死んだラザロをよみがえらせることによって「神様の栄光があらわされる」というのが神様のご計画であり目的であったということに気付かされます。
すなわち、「よみがえりの信仰」を確信させるためです。ここのヨハネの福音書で用いられる「神の栄光」とは、「十字架の死」を意味していますので、この事自体が人の想像を超えた神の愛を現しているというのは、私達が今だからこそ、理解できることなのだとおもいます。
私たちもいずれ例外なく、自分の死に直面します。何も持たずに生まれてきた私達は同じように何も携えることができずに死を迎えます。残念ながら、その人が人生でなしたいろいろなことは死に対してはなんの力にもなりません。
ヨハネ11:25〜26で「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。このことを信じますか。」と私達に今も問いかけておられます。私たちの恐れの最後の砦である「死」を打ち破り、勝利を与えてくださった主のことばに心の耳を傾けてみませんか?
後奏: