令和3年12月5日 ヨハネによる福音書 講解 第13回 「生ける水の川」
賛美:
38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
40 群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、
41 ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。
42 キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
43 こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。
今日は、7章の1節から36節までのお話は、通読してくださればわかるところですので、解説は飛ばすことにしました。各自お読みください。
イエスさまの一行は、仮庵の祭りに行くために,密かにエルサレムに来られました。というのは、エルサレムでは、ユダヤ人の宗教指導者がイエスさまを殺そうと考えていたからです。5章で、ベテスダの池での奇蹟を安息日におこなったことで、ユダヤの律法学者たちから敵視されていたという話を致しましたが、その後のイエスさまの働きの噂を知っていたのでしょう。これ以上、彼の人気を抑えないと自分たちの破滅になるというところまで切迫していたのです。
一方、ユダヤの一般の人々の間ではイエスさまのことはどのように評価していたのでしょうか?「あの人は良い人だ。預言者だ、キリストだ。この方がキリストでなかったら、このような多くのしるしはどこから来ているのだろう。」と好意的にみている人々と「いいや、群衆を惑わしている人物だ。それにガリラヤからは救い主はうまれないはずだよ。」という意見にたいし、「キリストは、ダビデの子孫で、ベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と人々の間で論争がおきていたのです。
今日のメインテーマは、「生ける水の川とはなにか?」ということです。37節で、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と書いているところをご一緒に考えてみたいと思います。
ここで、「聖書にかいてあるとおり」というのは、旧約聖書のことですが、どこなのかと探してみました。2箇所ご紹介します。
「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」
イエスさまが「生ける水」と語っているのは、聖霊という意味です。
これは、キリスト教の大事な教義である「三位一体説」に関わってきます。簡単に表現をすると、キリスト信仰者は唯一の神様を信じています。そして、この神様の本質は父なる神であると同時に、子なる神でもあり、聖霊なる神(聖霊)でもあるのです。この神様の本質を神学では「三位一体」と呼びます。
聖書にはこの用語は出てきません。しかし、キリスト教会では古くから「三位一体」(ラテン語ではtrinitas、英語ではtrinity)という表現が用いられてきました。もう一度いいますと、神様は3つの位格を持っておられるということです。位格というのは、人間で言うと人格のようなものです。
しかし、霊という概念はなんだか捉えようもなく感じられると思いますので、私達人間も霊的な存在であるということを理解するのに役に立つかもしれないのでお話をしてみたいと思います。
緩和医療について次のような説明があります。
「緩和医療、すなわち緩和ケアは, がんのみが対象ではなく, 終末期のみが対象ではなく, quality of lifeの改善が目的であり, 死期を早めるような行為ではないと定義されている. Physical, psychological, social, spiritualの多面的要素で構成される 「全人的苦痛」 が緩和医療の基礎となる概念であり, 4つの苦痛は互いに影響しあうと理解すべきである. ホスピスから始まった緩和ケアは現在 「疾患の早期から適応となる」 とされ, ホスピスケアは終末期緩和ケアのひとつの形ととらえることができる. 国内では施策によってがん緩和ケアが浸透はしたが, がんと診断された時からの緩和ケア, 緩和ケアの質向上, がん以外の疾患に対する緩和ケアが課題となっている.」
人は、「身体的、精神的、社会的、霊的」な存在であると表現しています。この4つの要素がバランス良く整えられることが人の幸福、人生の質の向上につながるという意味です。
ここで誤解してはいけないのは、緩和医療における「霊的存在」「霊的な痛み」というのは宗教的な意味ではないということです。例を言えば、「どうして私は生まれたのだろうか?、生きる目標はなんだろう?、私の人生に意味はあったのだろうか?、人を愛するということはどういうことなのだろうか?」などの永遠の課題、悩み(痛み)を探求する思いといってもいいかもしれません。人間を形成している一番奥深い、根本的なところの要素を意味しています。
ところで、人間は心の奥底で、何か意味あることをしたいという願いを持っています。それは実は、生ける神ご自身への渇きなのではないかと私は考えます。
ちょうどダビデの祈りの通りです。
「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」詩篇42:1これが、人間が普遍的に持つ渇きではないでしょうか?
ある人々は、この渇きを物質的で埋めようとします。お金さえあれば幸せになれると思います。ある人々は感情的なもので満たそうとします。ある人々は知的なことでこの渇きを埋めようとするでしょう。学問で探求したり哲学や思想を学びます。また刺激的なことを求めて渇きをいやそうとします。確かに、これらはある程度は効果があるかもしれませんが、根本的な渇きを癒すことにはならないのではないでしょうか?
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」私たちの渇きは、こうおっしゃってくださるキリストによって満されるのだと主は語っておられます。
39節において、ヨハネは「すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。」と解説していますが、それは、イエスさまが十字架で死なれたあと、三日目に復活をします。すべての罪の贖いを完結され、復活をされたその時がまさに栄光を受けられた時といえますので、その時に聖霊が下ると表現していると思われます。聖霊の働きについては、ヨハネ福音書の後半で、改めて取り上げたいと思っています。
賛美:
みなさん、私達のためにお祈りください。