聖書:
前奏:
ロンドンからアメリカのミネソタ州に移った私達家族は、空港からセイントポールにあるベテル神学校の寮であるアパートに向かったのは熱い夏でした。部屋に入ってみると親切にも冷蔵庫にはジュースと水が入っていて、私達への歓迎のカードまで置いてくださっていたのです。親切心からなのですが室内はまるで冷凍室のように冷え切っていてしかも夜に到着した私達は家具もお布団もまだないので、ひと晩中寒くて震えながら朝を迎えたのも懐かしい思い出となっています。夫はまだ最終論文が残っていたので数日で家具を揃え、二台の中古の車を購入し、自分と子供たちの学校の手続きを済ませて再びロンドンに戻っていきました。
ダイヤナ妃が亡くなったのは、1997年の8月31日のことです。息子の友達が最後の夏休みということで我が家に遊びに来て1泊していた夜のことです。私は疲れて居眠りをしていたのですが、この訃報のニュースを見た息子に起こされて事件を知ったのでした。さっそくロンドンの夫に電話をして知らせましたら、ニュースも見ない日々を過ごしていたらしく、まだ彼はそのことはしりませんでした。
このベテル神学校というのは修士の大学院です。広大なキャンパスにはベテル大学がありました。神学校の妻たちは授業の単位はもらえないのですが、半額で授業を受けられることになっていたので私もクラスに参加することにしました。しかし、そのうちに同じ勉強をするならば神学修士課程を取りたいと思い正規の学生に切り替えたのです。
ベテル神学校
ベテル大学
実は、ふたりとも神学の勉強がどんなに厳しいものであるか、認識していなかったのです。各科目の必読すべき本はため息が出るほどありました。しかも中間と期末試験があり落第もあるとのことでアメリカの学生でもなかなか2年では卒業することができないことを聞き、生はんかの勉強で資格を取得できるものではないことをクラスに入ってから痛感したのでした。
私はクラスの単位は夫とほとんど同じ科目でしたので、英語力のある彼にまず教科書を読んでもらい、それをサマリーしてもらうこと以外試験に合格する道はないと私は思ったのです。特に宗教史の授業は資料の分析などがあって皆目理解できないほど難しいものでした。この科目だけは夫にも手強い科目でしたし、他の留学生たちも合格点は無理と思うほどのものでした。
そこで、私は友達から昨年の試験問題を入手することを思いついたのです。一番親しかった友人のダニエルにお願いに行きました。すると、その人が「恵!それは駄目だよ、だってそれってカンニングだろ。罪だよ。」と真顔で私をたしなめたのです。すぐさま私は彼の目を見つめて「え!罪ですって! ハハハ。ダニエル、それは違うわよ。大学受験の時に過去に出題された問題集で勉強をするでしょう?それと同じよ。一年前の試験がそのまま出るという保証はどこにもないわけでしょう?でも大いにヒントにはなるのは間違いないからね。ここには私を含めて留学生が8名いるの。みんな英語で苦労しているのよね。だから助けてくれませんか?ただし、この問題は留学生にだけに回すということを約束するから。あなたも私たちも合格できて卒業できて神様の為に働ければいいのではないの?あなたはきっと私達を助けたことで神様に祝福を受けるに違いないと思うよ。」というと彼は不思議そうな顔をしましたが納得したということで昨年の試験用紙を貸してくれたのです。私は留学生の皆さんに「これは特別の神様のお計らいだ」と言ってコピーして渡したのです。このおかげで留学生はどれだけ他の科目に専念できたことでしょう。ところで、この科目の教授は80%同じ問題をだしていたのがわかりました。それで大いに助かったのでした。
私も段々と英語の授業内容が聞こえるようになってきたので、そのような助けは必要無くなっていきましたが、やはり夫のサマリーがなければ落第していたことでしょう。
宣教学という科目はとても関心が深く楽しみましました。教授は私のアドバイザーでもあり、感謝祭のときには家族全員でご自宅に招待を受けてあの大きな七面鳥をご馳走になりました。
シスコに住む姉の家族の感謝祭ディナー
夫は1年の宣教師コースでしたので、私よりもはるかに科目数が多くて必死に勉強をしなければなりませんでしたがいつも優秀な成績をとっていました。私もそのおこぼれでなんとか合格点は取れたのは感謝でした。ところが、1科目だけ彼より優秀な科目があったのです。それは「臨床パストラルケアー」という科目でした。
授業では理論を学んだ後は実習があるのです。私達は老人施設に配置され、毎週1回、何人かの利用者の方々の悩み事や雑談を傾聴しながら、その方々とかかわり合いを持つ中での会話を後で会話文として再現をして、チャプレンとして心理的また霊的ケアーをするためにはどうすればいいのかという自分自身への反省と学びをレポートにして提出し、担当牧師(チャプレン)の評価と指導を受けるのです。
夫は私の英会話が不十分なので、果たしてこのようなことができるのかを心配して、事前に担当のチャプレンに電話をしてくれたのです。すると彼の答えはこうでした。「心配いりません。言葉はあまり重要ではありません。そこにいてあげることが大事なのですから。」と言われたそうです。それを聞いた私は大いに励まされたのでした。
その施設には当然ながら認知症や精神病の方もおられました。夫は認知症の一つで社会的抑制の取れる種類のピック病と思われる女性の方にお尻を触られたというハプニングもありました。リラックスをしていただくための音楽会に担任のチャプレンのピアノ伴奏で私がアルトサックスでアメイジング・グレイスを吹いた時にもその同じ女性から「シャラップ(うるさい!黙れ!)」(shut up!)と怒鳴られたりもしたのです。でも、最後にその女性が礼拝中に私の手を優しく握り「Thank you」といってくださったのでした。
ある男性の方がうつ状態で苦しんでいて傾聴をしてほしいということでした。お話を聞かせていただき、私も同じ病気を持っていることを分かち合いました。するととても喜んでくださって二人で短く祈ったことも感謝なことでした。このクラスを通じて私は改めて病気の人々に寄り添うチャプレンという仕事に新たな使命を感じはじめたのでした。
みなさん!「好きこそ物の上手なれ」という諺がありますがこのことですね。私のパストラルケアーの成績はなんとA+(最高点)で夫はAだったのです。(つづく)
後奏: