令和3年11月28日 ヨハネによる福音書 講解 第12回 「あなたがたも去ろうとするのか?」

令和3年11月28日 ヨハネによる福音書 講解 第12回 「あなたがたも去ろうとするのか?」

 

礼拝プログラム(令和3年11月28日)
前奏:

初めの祈り:                       道夫宣教師

賛美:

聖書:ヨハネによる福音書6章:22節−71節
メッセージ:「あなたがたも去ろうとするのか?」         惠牧師

応答の祈り:                         道夫宣教師  

聖餐式:

感謝の祈り:                         恵牧師

後奏:

 

今日の聖書の箇所はとても長いので、以下のサイトに聖書がのっているので各自でお読みください。文章も録音もあります。

 

前回は、弟子たちがカペナウムに船で行く途中に嵐になったお話でした。時はその翌日で、カペナウムの会堂においてイエスさまがお話をしたのです。ここに居合わせた人々というのは、イエスさまの他に、12弟子とそれ以外の弟子たち、そしてパンの奇蹟を体験した群衆の一部の人達です。

 

群衆は、イエスさまが自分たちのいるところにまだおられると思っていたのですが、イエスさまと弟子たちの姿が見えないのに気づき、急いで船でカペナウムにやってきました。きっと置いてきぼりにされたと思ったのでしょう。ようやく、イエスさまを見つけた一人が真っ先に、いつイエスさまがここに来られたのかと訪ねました。心のなかでは、「私達を無視した!」という気持ちがあったのではないでしょうか。

 

ところが、その問いには答えないで、イエスさまは「あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。」(26)といわれたのです。救い主として信じてついてきたのではなく、また今日もパンをもらえるだろうと思ってここまでついてきたことを見透かされてしまったのです。

また、さらにイエスさまは、「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。」(27)と言われたので、彼はこのように言い返したのです。「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」すると、イエスさまは、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」(28)と答えられたのです。すなわち「私を神の子として信じなさい」と言われたのですが、そのことを受け止めるのではなく、逆にイエスさまに質問をするのです。30節で、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか」と迫ったのです。

パンのしるしはすでに経験したのに、それ以上の奇蹟をさらに見せてくれたら神の子として認めようといわんばかりです。あのパンの奇蹟だけでは足りないのですね。

 

感謝する心を忘れて、次々と自分たちの思いどうりに与えてくれる対象として、いわば「ご利益」だけを求めている群衆の姿です。

神様を自分の利益のために利用しようとすることは断じてあってはならないのですが、これも私達人間の弱さですね。「キリスト教はご利益宗教ではありません」と言っているクリスチャンも自分たちの祈りを分析してみると、おそらく、お願い事がナンバーワンだと思います。恥ずかしながら、私の祈りもほとんどお願い事であると認めざるを得ません。皆様はいかがでしょうか?

 

 

そのうちに群衆はこのようにつぶやくのです。

「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか」(52)

「こんなに偉そうなことを言っているが、イエスは我々とおなじ人の子じゃないか。それなのに自分が神の子だと言いはっているが、あやしいものだ。これ以上我々にとっては何の益にもならないよ。」と言って群衆は去っていきました。

 

 

一方、カペナウムの会堂での説教の中で、

「55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。57 生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。58 天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」と言われたことから、今度は、弟子たちの間に大きな波紋を呼んだのでした。「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」(60)

と言って多くの弟子たちも去っていったのです。

 

弟子といえば、イエスさまを救い主と信じていて従ってきていた人々です。今までにもイエスさまが病人を癒やし、人々にパンの糧を与え、多くの慰めと愛を示してきたのを見聞きしていたのにも関わらず「私が命のパンである。」と断言し、後に十字架上で肉体の象徴であるパンが裂かれ、血潮が流されて、その血を飲むことによって人類の罪をあがなうという最大の救いの核心メッセージとして語られたのですが、彼らはその意味を悟ることができず、イエスさまご自身に失望して去っていったのです。

 

(私達は聖餐式として、イエスさまが言われたこの言葉を思い起こしてパンとワイン(ぶどうジュース)を頂きます。最後の晩餐のときに初めて弟子たちに言われたことではないのですね。このようにイエスさまは弟子たちには、わかりやすく、何度も繰り返し話されたと思いますが、12弟子でさえもイエスさまの真意を理解することはできませんでした。)

 

人々が去った後に、イエスさまは12弟子たちにこう語ります。

「あなたがたも去ろうとするのか」(67)と。

その時のイエスさまのお気持ちを察すると胸が痛くなります。

 

ペテロがこう答えました。

「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」皆さんだったらイエスさまにどのように語られますか?

 

このペテロの応答にはイエス様に対する忠誠心がよく表れていますね。

福音書には、ペテロが他の使徒たちの仲間を代表して話をしていることが多いのでこれは弟子たち全員の気持ちであったに違いありません。ペテロは弟子の中でも一番年長でしたが、子供のように素直なところがあって、しかもイエスさまを心から慕っていました。イエスさまご自身も彼の良さを充分にご存知だったと思います。多くの人々が去っていったときに、このようにきっぱりと言えるペテロに、またその他の弟子たちの思いに、イエスさまはきっと感動されたと思います。

 

愛情というのは、ただ一方向に注がれて存在するものではないと思います。師弟関係であっても、親子であっても、また友達関係であっても片一方だけだと枯渇してしまいます。愛はコミュニケーションが双方向にスムーズにいくことで育っていくものではないでしょうか?

 

「イエスさまは父なる神様がいるんだし、神様の子だから人間からの愛なんて必要ないでしょう。」とみなさんは思われるかもしれません。

でも、そうではありません!

イエスさまも私達から愛してほしいと願っておられます。親しい関係を求めておられます。イエスさまになんでも率直に語ってほしいのだと思います。

 

6章の最後の71節には、「このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」と結ばれています。

パンの奇蹟は人々の信仰の成長になるどころか、かえってイエスさまに対して反抗心を芽生えさせる結果となりました。

これほど驚くべき御業をみせられたのにも関わらず、イエスさまは人々から誤解され、また拒絶されていきます。次回は7章にすすんで参りましょう。

 

 

PS:今日の日曜日からクリスマスイブまでの4週間を教会暦では「アドベント」(待降節)といって、キリストの誕生までに、1本ずつ、ろうそくに火をともしながら、イエスさまの生まれた日を待ち望みます。

 

おすすめの記事