
前奏:
初めの祈り: 道夫宣教師
賛美:
一同
特別賛美演奏 オカリナ アメイジング・グレイス
道夫宣教師
聖書朗読: ヨハネ福音書5:1−9 道夫宣教師
メッセージ:ヨハネ福音書(8)
題:「あきらめてはいませんか?」 恵牧師
感謝の祈り: 道夫宣教師
祝祷: 恵牧師
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように
主が御顔を向けてあなたを照らし
あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて
あなたに平安を賜るように。」 アーメン
後奏:
ヨハネによる福音書 講解 第8回 「あきらめてはいませんか?」
2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。彼らは水の動くのを待っていた。
4主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである。
5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。」
(注:ベトザタは口語新約聖書(1954年)、新約聖書新改訳(2003年)ではベテスダと表記される。)
前回は、ガリラヤ地方のカナで、カペナウムに住む王室の役人の息子が癒やされたというお話でした。その後、どのくらいの期間を経たのかはわかりませんが、ユダヤ人の祭りになり、イエスさまの一行は再びエルサレムにのぼられました。
ユダヤ人が守るお祭りというのは、年に7回あります。その中の三つは大きなお祭りで、3月の終わりから4月の初めにある「過越の祭り」、そしてその50日後に行なわれる「7週の祭り」、そして秋に「仮庵の祭り」があります。このいずれかであったのでしょうが、どのお祭りであったかはしるされていません。
今回のお話の場所は、「ベテスダの池」での出来事です。
この池の存在は、このヨハネの福音書の中にだけその名が残されていました。そのため、実際にこのような池があったのかどうか、その史実性が疑われていたのですが、19世紀にエルサレムの町の発掘調査の結果、この池の跡が出現し、ヨハネの福音書の記録の確かさが証明されたのです。

ベテスダの池

羊の門
水が動くときを待ち、すばやく池に入って、自分の病気を治してもらいたいと集まっていた人々だったのでしょう。でも、実際は、そんな奇跡がたびたびおこったとは考えられません。めったにおこらないその瞬間を「見逃しちゃなるものか、真っ先に飛び込むんだ!」と、人々は真剣に願っていたことでしょう。そこでは、「他人のことなんかかまってはおれない」という状態であったに違いありません。
こういう気持ちは今の時代の状況にも似てはいないでしょうか?
イエス様はそこに横たわっている人を見て、6節で「良くなりたいか」と問いかけます。その前に「長い間病気であることを知って」とありますので、彼の身の上に同情し、共感されて、その人に語りかけられたのだと思います。ベテスダという名のように、神の慈しみをもってこの男性に近づかれたのです。
イエス様というお方は、このように、私達一人ひとりに親しく、近づいてくださるということがわかります。
この男性は、語りかけてくれる人が誰なのかを全く知りませんでした。ただ、「病気が治らない理由をつぶやくにすぎず、「治りたいのです」と言うことさえもできない状態でしたが、イエス様がおっしゃるように従って起きてみたのです。するとどうでしょう!起き上がり、歩くことができたのです。
私達の人生の中で、自分には、この問題は解決できないのだと思って諦めて、考えないように棚上げにしていることがあるかもしれません。しかし、そのような時、聖書の中でイエス様があらゆる困難の中で苦しんでいる人々になさってくださったことをもう一度心に止めてみる時、新たな視点に気づかされます。
小さな経験なのですがお聞きください。
私は、小学校時代に溺れた経験があったので、美しい海や川を見て楽しむということができないほど臆病なところがあったのです。もちろん、3mも続けて泳げない金槌でした。私が住んでいる紀南は、自然の恵みが豊かで特に海岸線が素晴らしところですが、ドライブをしていても山ばかりを見ていたのでした。海を見ると、吸い込まれそうになる恐怖が起こってくるからです。子どもたちとプールにいても、決して泳ぐ気持ちにはなりませんでした。69歳になった昨年からこれではいけないと思いはじめ、プールで練習しようかなと思いましたがなかなか決心がつかなかったのです。
このように祈りました。「イエスさま、私に勇気を下さい。いつまでも昔のトラウマを持ち続けたくはありません。でも、私にできるでしょうか?どのようにすれば泳げるようになるのでしょう?」
そのうちに、お隣のご夫人が近くのプールで水泳教室に行き始めていることを聞いたのです。それがきっかけとなり、私も入会することになってこの11月で1年目を迎えます。
不思議です、みなさん!
もう水を怖いとは思わなくなるほど、潜れるようになりましたし、夢であった4種目(クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ)が先生たちのご指導のおかげで、25m泳げるようになったのです。泳ぐことが楽しいですし、しかも、肺の難病を持っているこの私の体調までも非常に良くなってきていることに驚きと感謝でいっぱいなのです。そして今では、ドライブのときは海の美しさに目を細めている自分を発見します。
いわゆる私のPTSD(心的外傷後ストレス障害)が克服されたのです。自分のコンプレックスやトラウマを見つめている限り何もおこりませんでした。そして、自分の能力、体力を常識的に判断していたら、おそらく実現できなかったでしょう。神様は私の望み以上のことを実現してくださり、過去の恐怖心から癒やしてくださったのです。私は神様に感謝しつつ、水泳を楽しんでいます。
聖書に戻りましょう。
ところが、このお話はハッピーエンドにはなりませんでした。この「しるし」を行った「時期」のことで問題を引き起こしてしまったのです。というのは、このときはユダヤ人が守る「安息日」だったからなのです。
安息日というのは、ユダヤ教の聖日で神さまが天地を創造し終えて第七日めに休息したという「旧約聖書‐創世記」の記述に基づいて金曜日の日没から土曜日の日没までのことです。そのときは仕事を休み、宗教的儀式だけを行なうことを固くまもっているのです。イエスさまはその掟を破り、この男性を癒やしたことでユダヤ人の間で非常な反発をかってしまいました。そして、これ以降はユダヤ人とイエス様の間にますます激しい確執の関係に突入していくことになります。次回、このことを取り上げたいと思います。
参照:
ユダヤ教の教典を読み、伝統的なセダーという食事をしながら、ユダヤ人は奴隷として苦労をした祖先に思いを馳せ、彼らがエジプトから解放されたことを祝います。