礼拝説教「動かされることなく」

題: 動かされることなく:   2021年4月25

<コリント人への手紙一15:58)
「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」

 

メッセージの前に一言お話をさせていただきます。

町長選挙活動のために、しばらく、メッセージを作ることができませんでした。お詫び申し上げます。昨年の11月から本格的に政治活動をはじめ約4ヶ月間、道夫宣教師とともに進めてまいりました。その間の人々とのふれあいや、要望を傾聴し、また医療相談の中で、今まで以上の人々に福音をお伝えできたように思い、心から感謝な日々をおくらせていただきました。

 

いよいよ、礼拝も今後は一般公開して、皆様が参加されますように、又これまでのように、HPに今後も続けてメッセージを入れたいと願っています。

 

串本町と東牟婁郡の地域の人々のために祈りつつ、ご奉仕をさせていただきます。また、6月から始まります「からし種在宅クリニック」に全身全霊をかけて人びとのニーズにお答えしたく、皆様のお祈りに覚えていただきたいとお願い申しあげます。

 

それでは、改めて、メッセージを致します。

ここで「主の業」とはどういうことでしょうか?私達の主、イエス・キリストはどのような業をなさったかを振り返ってみましょう。

私なりにリストをあげてみます。

1)すべての人類が永遠の命を与えられるために、この世に来てくださいました。

2)私達の罪の身代わりとなって、十字架の苦しみを受け、死んでくださったそのおかげで、私達は神の子供として立つことが許されました。

3)死を勝利され、復活されて、今も私達のそばにいて聖霊となって導いてくださっておられ、生きて働いてくださっています。

みなさんもメモをおとりになって考えて見てはいかがでしょうか?

 

また、「主の業」を他の言葉で言い換えれば「主の使命」と言ってもいいかもしれません。私達は、主の深い愛と慈しみを知ったものとして、新たに使命をあたえられています。そしてその使命には、私達が共通に頂いている真理の使命と個人的に与えられた賜物としての使命があると考えられます。

 

共通な使命の例としては、

「あなた方は地の塩、世の光となりなさい。」があげられます。<マタイ 51314

地は「この世」を意味します。塩は世に味わいを添え、腐敗を防ぎ、清潔を保ちます。大切なのはその塩味が自分からのものではなく、主に従うことによって初めてその効力が発揮できるということを今一度確認したいと思います。主に従うことなしに塩はその効力を保つことができないからですね。

 

余談ですが、主婦の方はご存知かもしれませんが、甘いあんを作る際には、逆と思われるお塩をちょっといれますよね。それがなんとも甘さをさらに豊かに誘い、アクセントがつくという経験をします。

私達は、ともすれば、自分と同じ意見の人たちを望みますけれど、自分とは真逆の考えが、微妙に加わることで、もっと深みのあるものに変えられると言う現象を見ることがあります。これも塩の役割かもしれませんね。

 

さらに、主に聞き従う者たちが光であるという根拠は、真の光である神様の子イエス様ご自身が光であられるからなのですね。

世の光は、隠されず、輝くことによって、周りの暗闇を照らし人々をひきつけ安心と希望を与えます。しかし、これは自分自身をひけらかすことではありません。自分の名誉を求めてではなく、神への感謝と人々との連帯意識をもって、真心こめて善い行ないをするように勧められているのです。

 

 

ところが、私達は主の業に励み、使命に生きようとすると必ずと言ってもいいほど、試練の壁にぶつかります。旧約時代の例をとりますと、かつて12人の斥候(せっこう)がカナンの地を探った後に、10人が否定的で不信仰な情報をイスラエルの民に報告し、民の心をくじきました。しかし、ヨシュアとカレブだけは信仰に満ちた心で民にカナンを攻めるときは今だと進言したのです。そしてついにことは成就したのでした。      <民数記32:7〜12>

不信仰や否定的な考え、恐れは、人々に強く感染して行きます。私達を信仰の歩みから引き離してしまいます。使命に献身し続ける時には、苦しみも涙も伴います。簡単なことではありません。突きつけられている現実は、私たちには深刻かもしれません。しかし、神の御心に従うゆえの苦しみは、日々主に結ばれている限り、そこには私達の考えでは及ばないほどの神様の助けがあり、必ず勝利となることを共々ここに確信いたしましょう。

 

おすすめの記事