令和4年1月2日 ヨハネによる福音書 講解 第16回 「キリストは門であり、良い羊飼いである。」

ヨハネによる福音書 講解 第16回 「キリストは門であり、良い羊飼いである。」

前奏:

 

 

時は冬であった。イエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。」とあります。ユダヤ人の祭りに「ハヌカの祭り」があります。この祭りは、別名「宮きよめの祭り」「光の祭り」とも言われ、イエス様も祝われました。ハヌカの祭りは、歴史上の出来事に由来しています。

 

B.C.2世紀、ユダヤはシリアの支配下に置かれました。シリアは、占領政策として、徹底的にユダヤ教を弾圧しました。B.C.175年、シリア王アンティオコス4世は、神殿を略奪し、ゼウスを始めとする数々の偶像を据え、ユダヤ人にその偶像を拝むように強要し、安息日や割礼、捧げ物等ユダヤ教の律法を一切守ることを禁じ、従わない者は死刑にしました。そして、更にシリア王は自らを現人神と呼び、都に火を放ち、城壁を破壊し、8万人のユダヤ人を虐殺し、4万人を捕虜、4万人を奴隷としました。

この圧政に耐えかねたユダヤの祭司の家系のマカベアは民を率いて反乱を起こし、3年間の戦いの末に勝利し、B.C.165年、エルサレム神殿を開放し、神への礼拝の為に再奉献しました。ハヌカとはヘブル語で「奉献」を意味します。

また、この神殿解放の際、神殿の燭台に灯す為の油として、たった1つだけ汚されていなかった油壺が発見され、再び燭台に火が灯されたところ、1日分にも満たなかったその油は、8日間も燃え続けたという奇跡が伝えられています。ここから、ハヌカは8日間祝われる別名「光の祭り」とも呼ばれています。ハヌカの祭りには8枝+ろうそくをつける台の9つの台があるハヌキヤと呼ばれる特別な燭台を使います。1日ごとに1本ずつ点火し、8日目には全部のろうそくに灯るようにします。壮絶な歴史的背景を持つハヌカですが、時期的にキリスト教のクリスマスと重なる影響もあるといわれ、現在ではユダヤ教版クリスマスとも呼べるような楽しい祝い方をするようになっています。

本題に入りましょう。

 

10章は9章からの続きです。9:40−41に[イエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」というところから展開していきます。

 

パリサイ人たちは、イエスさまのことばを正しく受けとめることが出来ませんでした。イエスさまはここで「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者」と言ったのは、パリサイ人たちのことを指しています。

 

3節で「門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。」と言われました。すなわち、羊に一匹ずつ名前をつけて、羊飼いは名前を覚えているばかりではなく、その羊のことをよく知っているということなのです。牧者にとって、羊がかけがえのない存在であるということです。10節の後半に「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」 とおっしゃっています。

 

イエス様がこの世に来られたのは、人類がいのちを得て、さらにその生命を豊かにするためだと宣言をされました。つまり、罪からの救いと真の意味で生き生きとした人生を送ることができると言うことができます。

「豊かないのち」とは、単に物質的な豊かさや心の豊かさだけを指しているのではなく、霊的な喜びも含めた全人的な祝福のことです。

 

おさらいになりますが、ヨハネ福音書は、その冒頭でイエスさまについて独特な表現で描きました。1章1節で「初めに言があった。「言」は神と共にあった。「言」は神であった。」4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」イエスさまを通してこそ、真の命に至ることができる。そのために来られ、そのイエスさまをヨハネ福音書では、神と共にあった言(ことば)として描き、その言の内に命があり、この真の命こそが暗闇の中で輝く光だと強調をしています。

 

ところが、今、イエスさまは、命を捨てると言われます。暗闇の中に輝く光であった命を捨てること、それが良い羊飼いであることの証しなのだというのです。命を捨てる、それは十字架の死を指していることは明らかです。それはすなわち、イエスさまご自身が暗闇の中に立たれるということを意味しています。 

私達の人生の中には、自分たちでは解決しようがない闇の世界をくぐることがあります。病気、試練、失敗と挫折、無実無根の中傷、死別等々。しかし、イエスさまは、闇を抱えた私たちに命を捨ててまでも、共にいてくださるお方であることをここで述べているのです。

誰からも理解されなくても、イエスさまだけは、私たちの価値を知っていてくださっていて、どんな時にも(たとえ罪の中にあっても)私達は決して見放されはしないのです。

 

 

私自身は、牧師や医師ということで、悩む方々に接する機会が多いほうです。その方がたになんらかの助けになりたいと思っていますが、時には自分に限界を感じ、無力感でいっぱいになることがあります。そのたびに、自責の念にさいなまれます。実際に、途中で到底自分にはできないと逃げ出したこともあります。けれども、イエスさまならどうされるだろうかとたずねながら、信頼して委ねることでその荷が軽くなって、もう一度関わりを持とうとする勇気をいただくことを経験しています。不十分ですが、寄り添い続けられるようにと励まされています。門であり、良い羊飼いのイエスさまのお姿を仰ぎながら、苦しむ方々と共に歩む者でありたいと願います。

 

もうひとつ、今日、みなさんと確認したいことは、囲いの中に守られ、安らぐ羊のほかに、囲いの中にも入れずにいる羊をもイエスさまが共にいてくださるということです。一人として取り残されず、イエスさまに招かれているということをしっかりと覚えたいと思うのです。ご自分に敵対するこのパリサイ人たちも他宗教の異邦人もイエスさまの目には、大事な羊であることに変わりはないのです。すなわち敵という対象ではないということに注目していただきたいと思います。

 

イエスさまが、十字架にかけられことで闇が勝利したように見えましたが、復活されて、闇に完全に勝利し、私たちを永遠の命へと導いてくださったのです。この事実こそヨハネが最も私達に伝えたいと思ったことではないでしょうか?

後奏:

追伸:
皆様に年末「防災士」の資格試験を受けるので祈ってほしいとお願いを致しました。おかげさまで道夫宣教師と私は合格をすることができましたことをお伝えします。神様に栄光を帰するとともに、ご心配してくださり、励ましてくださった読者の皆様にこの紙面をおかりしまして、心から感謝を申しあげます。今後は、地域社会の人々とともに自主防災の強化のために尽力してまいりたいと思っています。有難うございました。

 

 

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