令和3年11月21日 ヨハネによる福音書 講解 第11回 「恐れないで」

ヨハネによる福音書 講解 第11回 「恐れないで」

礼拝プログラム
前奏:

祈り:                        道夫宣教師

聖書朗読:ヨハネ福音書6:16-21

メッセージ:   「恐れないで」              恵牧師

応答の祈り:                        道夫宣教師

後奏:

 

聖書:ヨハネ福音書6章16節-21節
16 「夕方になったとき、弟子たちは海ベに下り、
17 舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた。すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった。
18 その上、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した。
19 四、五十丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。
20 すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。
21 そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。」

注: 1丁=約109 メートル

 

先週は「5つのパンと2匹のさかな」の奇跡のお話でした。今日は、その後におこった「不思議な出来事」について述べたいと思います。

6章に書かれている記事は、他の弟子達が書いた共観福音書にも同じく書かれています。ヨハネよりももっと詳しく描写しているところがありますので、その内容もご紹介しながら状況を見ていきましょう。

 

イエスさまがしばらくの間、人々や弟子たちを避けて、一人山に退かれていました。

時は、群衆たちと夕食を食べたあとのことですから、すでにあたりは暗くなっていましたが、弟子たちだけで、舟に乗り、カペナウムに行くために湖を渡っていました。ところが、そのうちに、強風が吹いてきて海が荒れ始めたのです。弟子たちの中には漁師が幾人かいましたので、このような事態には慣れてはいたでしょうが、やはり暗闇の中で嵐のようになれば非常に不安になったと思います。

 

注:(ガリラヤ湖は海面の高さよりも200メートルも低い所にあって、時にこうした突風が吹いて来ることがあるそうです。)

 

その時です。人が湖の上を歩いて舟に近づいて来るのが見えたのです。それを弟子たちは、幽霊だと思って非常に恐れたとマルコ福音書の6章49節に記されています。人間が水の上を歩くなんて考えられないからです。すると、その人はヨハネ福音書の20節にありますように「わたしだ、恐れることはない。」といわれたので、弟子たちはその人は幽霊ではなく、イエスさまだと初めてわかったのでした。

 

ところで、マタイ14章28節以降の記事によりますと、弟子のペテロはこのとき、「主よ。もし、あなたでしたら私に水の上を歩いてここまで来いとお命じになってください」と突拍子もないことを願ったのです。それに対して、イエスさまは「来なさい」と言われたので、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスさまのほうに行ったのです。ところが、ペテロは風を見てこわくなり、沈みかけたので、「主よ。助けてください」と叫びました。すると、イエスさまはすぐに手を伸ばしてペテロを引き寄せてくださったのでした。ペテロはイエスさまだけを見ていたときには水の上を歩くことができました。しかし、現実の強風を見てしまったときに恐怖に襲われたのです。

 

さて、ここから今日の本題に入ります。

弟子たちは、今までにも奇蹟を目の前で体験してきましたし、その度に「この人こそ救世主である、神の子である」と信じ、自分たちの生活を捨てて、苦労もいとわず従ってきたのです。しかも夕方には「5つのパンと2匹の魚」の奇蹟で多くの群衆が満腹になったばかりではなく、12個のかごにいっぱいになるほど余ったという驚くべきイエスさまの御業に圧倒されたばかりでした。しかし、弟子たちは、イエスさまを完全に信頼できていたのでしょうか?

 

人の限界なのかもしれませんね。初めて経験することはどうなるかわからないというリスクが伴うのでやはり不安を感じて心配します。時には非常な恐れさえもいだきます。この点は私達も当時の弟子たちと同じではないでしょうか?

 

確信していたようでも、困難に直面したときには、信じきれてなかったところが顕になったり、自分の信仰は安泰だと思っていた矢先、思わぬ危機が迫ってパニックになって混乱したり失望してしまうことが日常生活にはよくあります。

 

実際にイエス様と寝食を共にしている弟子たちでさえ、イエスさまが地上に来られた本当の意味をず〜っと後までわからなかったのです。どんなにイエスさまがそのことを機会あるたび毎にお話をされても、受け止めることができなかったのです。「十字架で死ぬなんてとんでもないことだ、ありえないことだ」と思っていました。キリストは永遠で、今こそ自分たちを救ってくれる王だと思いこんでいました。そして奇跡が起こる度に熱狂したことでしょう。

 

私達には旧約と新約の聖書が与えられていて、全体像が知らされています。教会で毎週メッセージや聖書の学びをとうして得られる知識もあります。信仰の歴史が長い信者の中には牧師がメッセージで語る前に結論がどうなるか想像できる方々も多いと思います。しかし、実際の生活において、今まで培われてきた信仰が、生き生きと根付いているかと問われればどうでしょうか?

 

そう簡単にはいかないことに気づかされます。

聖書は過去の出来事であり、いわゆる他人事として安全地帯の中で眺めることができます。弟子たちや人々の立場を自分に置き換えてみて、自分だったらどう判断してどのような行動をとっただろうか、そして、今私にとってイエスさまの存在はなんなのかと真剣に考えようとしない現実もあるかもしれません。

 

私もあと3ヶ月の命だと宣言されたときには、神様から見放されたと感じてしまって、言いしれない孤独を経験しました。たとえ、地上での命が終わっても、永遠の命のあることを固く信じていたはずなのに、目の前が真っ暗になって絶望したのです。また、医療伝道者としての長い夢がかなって意気揚々とでかけたアフリカで、嫌というほど自分の無力さに打ちひしがれた経験もありました。何のために自分は存在するのだろうか!今までの信仰が崩れそうになったこともあります。人は過去にどれだけ神様の助けを頂いて感謝をし、その度に神様への信頼を確信したにも関わらず、これからおこる事情はまた別なのですね。

 

それではどうすればいいのでしょうか?

私たちにとって必要なのは、目の前の問題を見て恐れることではなく、「わたしだ、恐れるな」と言われる主の御声を聞き、それを握りしめることです。そして、この方を私という人生の舟の中に迎え入れることではないでしょうか?

信仰を強めてくださる主に、信頼して共に祈りましょう!

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