聖書:
イエスさまは、まもなく去っていくことを弟子たちに明確に話されました。このことは弟子たちに何度となく話されたことでしたが、まだ彼らには受け入れることができないままでいました。しかし、いよいよ主イエスを失うかもしれないという緊張が漂う中で、自分たちはこの先どう生きていったらいいのかという恐れを抱いていたのです。
この「助け主」というのは聖霊を指しています。聖霊は、たとえイエスさまが去ったとしても彼らのそばにいて慰め、共に生きてくださるという存在なのです。
「その日」とは、後に起こるペンテコステ(聖霊降誕)の日のことを意味します。ユダヤ教のお祭りで「五旬節」に相当するのですが、ギリシャ語で「ペンテコステ」と言います。過越の祭りから50日目、つまり、イエスさまが十字架で死なれてから50日目に行われたお祭りに起こったのです。弟子たちが同じ場所に集まっていたとき、天から突然、激しい風が吹いて来たかのような響きが起こったかと思うと、炎のようなものが現れ、一人ひとりの上にとどまると、皆が他国のことばで話し始めたのです。(異言)イエスさまが言われた約束の聖霊が降りるというしるしでした。でも、このようなことを弟子たちは果たして想像できたでしょうか!
聖霊は、主イエスが地上でお語りになったこと、なさったことすべてを弟子たちに思い起こさせるものだと語っています。これは単に記憶に働きかけて思い出させると言うのではなく、むしろ弟子たちに強く働きかけて、今まで以上にキリストとともに生きることができ、キリストの業を行う者としてくださるのだと言う意味が込められています。
ところが、私達の側からしてみると「心騒がせるな」といわれてもどうしたらいいのでしょうか?落ちつこうと思えば思うほど、逆に不安がつのったり焦ったりしてしまいます。
主イエスが目に見える形でいて下さるかぎり、自分たちは安全で平和に暮らせるし、信仰も強められることが出来るにちがいないと弟子たちは全員思っていたことでしょう。また現代に生きる私達もそう思うのではないでしょうか?
子供の頃、私は母にこうたずねたことがありました。「お母さん、どうして私はイエスさまがいるときに生まれなかったの?それかもし旧約時代に生きていたら、神様の声が聞こえたかもしれないよね?」その時母は「そうなの?そう思うのよね〜。お母さんね、その気持よくわかる気がするのよ。でもね、今は聖霊の時代と言ってね、もっとその時代より神様のことがわかるようになっているのよ。私達は恵まれているんですよ。」とほほえみながら答えてくれたのですが、ちんぷんかんぷんでした。けれども、母が言ったことが少しづつ納得がいくようになりました。
事実、弟子たちは、主イエスが地上において御言葉をお語りになった時よりも、はるかに主が仰っていたことを理解することができるようになりました。弟子たちは、神の子が地上に来てくださったのはローマの圧政からユダヤ民族を救い、神の国が建設されると期待していたことでしょう。時代を超えた人類の救いのためにとは、とても想像が及ばなかったと思います。また、主に従ってきたのは、それぞれ自分たちが理想とするキリストの姿を思い描き、その弟子であることで自分の人生を意味づけようとしていたのではないでしょうか。しかし、主が十字架で亡くなった後に復活の主に出会い、そして約束の聖霊が下ることによって初めて、弟子たちはすべてのことが明らかになり信仰を深めていったのです。そして更に、聖霊の働きの中で、主の救いの業のために福音を携えて主の弟子として用いられるという大きな使命を与えられて力強く歩みはじめていったのです。
私たちも、キリストを目で見ることは出来ませんし、触れることも出来ません。その言葉を直接に聞くことも出来ません。しかし、聖霊の導きを受けて、聖書に書かれている御言葉が私達に働いて、確かな救いの確信と神様の愛を知るに至ることが許されているのです。
今日の一日が感謝で溢れますように、希望の日でありますようにとお祈り致します。
後奏: