聖書:
前奏:
イエスさまが弟子たちに語った遺言のメッセージをヨハネは14章から17章にしたためています。1節に「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」また、5節には「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と語られました。
パレスチナ地方は昔からぶどうやオリーブがさかんに栽培されていたようです。その他、からし種などのたとえ話をされて、土地の人々にわかりやすく神の国を伝えられました。
参考:
ところが、6節に及んで、ハッとさせられるのです。「人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。」と言う内容です。
このことばを、皆さんはどのように受け止めますか?
「イエスさまを信じ、つながっていなければ、神様の怒りをかい、捨てられてしまう」と解釈もできるのではないかと思うと、思わず怖いな〜って思いませんか?
14章で、イエスさまは聖霊をあなた方に送ると約束してくださいました。新約聖書のガラテヤ書(著者はパウロという人です)5:22-23には、聖霊の実ということが書いてあり、それは、「御霊(みたま)の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあります。これは道徳的にこのようにならないと駄目であるとか努力してなるべきであると言う意味ではありません。どんなに頑張っても私達人間にはこのような高潔な性質をずっと保つことは不可能です。
仏教徒の方はどうとらえているのでしょうか?ある方から教えていただいたのですけれど、
「仏教では人は108の煩悩を持っており、その全てを振り払う事が出来れば幸せになれると言われていて、除夜の鐘は108回鳴らす事で、それらの煩悩を振り払うという意味合いで鳴らされているようです。」とのことでした。仏教の宗派にもよるのだとは思いますが、煩悩を消すためには一生修行という方法をとられているのでしょうか?
仏教であれ、キリスト教であれ、全ての煩悩を振り払うのは非常に困難であると言う結論には違いないように思います。
私の個人的な見解なのですが「これらの性質をすべて持ち合わせておられるのは、ただ一人、イエスさまだけ」だと思っています。イエスさまを思い浮かべるとこのようなご性質そのものだと思うからです。
最近なのですが、花を育てるのを楽しむようになりました。かつては、父や兄が庭仕事をしているのを横目に見ながらも見て楽しむだけで何も手伝うことをしなかった私が、狭い庭ですから大したことはできませんが、毎日、花に話しかけ、水をやり、肥料を与え、植え替え、手入れをしています。時々剪定もします。
枯れた花や葉をとるときの心の痛みはいつもあるのですが、「今まで咲いてくれて、楽しませてくれて有難う。」と言って取りさるのです。
こんな小さな経験ですけれど、咲いて土に帰えるという植物でもこんなに愛しいと思うのですから、ましてや神様が愛情を持って養い育ててくださる私達を「何かできなかったから、失敗したから、悪いことをしたから」といって,切り離し、罰することなど決してなさらないと私は思うのですね。
旧約聖書の詩篇126:5-6に「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」とあるように、試練のなかで、またたとえ悲しみや不幸がおこっても、神様は私達を守り導いて必ずや喜びとかえてくださると私は信じて希望を持っています。
4節で「わたしにつながっていなさい。」というイエスさまの御ことばにフォーカス(集中)したいと思います。自分でもがき、叱咤激励をしながら努力し、善人になるようにと修行をするというのではなく、イエスさまのおおきな胸の中で、自分の心をじっくりと見つめながら、ゆったりと憩い、お委ねしたいと思いませんか?
イエスさまが聖霊となって私達のうちにとどまってくださり、ことを成就してくださるというお約束をしてくださったのですから、イエスさまにつながっていましょう。
私達の日常においても「人とのつながり」がだんだんと希薄になってきています。誰にも干渉されないで自分たちだけで快適に暮らしたいという人々がいる反面、閉じこもって孤独の中にいる人々もいます。
コロナの感染で、ますます人びとは隔離されています。また、自分だけ、自分の家族だけ、自分の国だけの利益を求めて、持つものと持たないものの格差が大きくなり分断の世界に向かっている事を危惧している人々もおられます。
後奏: