聖書:
2 イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。
3 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
7 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
8 貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
9 大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。
10 そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。
11 それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。
前奏:
ヨハネ福音書は大きく2つに分ける事ができます。前半は、前回お話をした11章のラザロの復活をもってイエスさまのこの地上での宣教活動は終わるところまで、後半は、12章からで十字架への歩みと十字架を前にしたイエス様の説教が記されています。今日のところは、イエス様の十字架へのプロローグ(前置き)とも言えます。
また、この話はヨハネの他にマタイ、マルコ、そしてルカも書いていますのでご参照ください。(マタイ26:6~13、マルコ14:3~9、ルカ7:36~38)
ただ、ルカの記事は内容的にはよく似ているのですが、状況設定に大きな差があるため、私は以前から、ナルドの香油をイエスさまに注いだマリアは一体だれなのかなと混乱してしまうのですが、別の物語だと考える学者もいるようです。このように聖書には事情がはっきりしない描写がよくありますが、そこに書かれている内容が大事なのであまり追求しないようにしています。
時は「過越の祭」の六日前で、主イエスが十字架にかけられる一週間ほどまえのことだと考えられます。
場所はベタニアです。マタイとマルコはベタニアの「ハンセン病であったシモン」の家であったと記しています。おそらく、シモンはその病をイエスさまに癒していただいた人だったのでしょう。またしても会食している場所についても不確かにはなりますが、このヨハネ福音書では、その席に11章で登場した、ラザロ、マルタそしてマリアの兄弟たちがイエスさまと一緒にいたことを書いているので、ラザロの復活と言うことと深い関係があることをヨハネは特に示唆しているのではないかと考えます。以前にも申しあげましたが、ヨハネは一貫したストーリーでイエスさまの生涯を伝えようとしている意図があるように見受けられます。イエスさまの生涯をご紹介するにはこのように一貫した記事のほうがわかりやすいと思ったので、あえてヨハネ福音書をとりあげたのが私の動機でした。
序文が少し長くなりましたが、今日のテーマに入っていきましょう。
お食事をしているときに、大変驚くようなことがおこりました。突然、マリアが「ナルドの香油」のツボを割り、イエス様に注いだのです。それはとても高価であったとあります。ところがその行為をひどく非難した人がいたのです。それは弟子のイスカリオテのユダであリ、彼は主を裏切ったものであるとヨハネは感情をあらわにしているように感じられます。
私が子供の頃、この場面を読んで「マリアが感謝の気持ちでしたことをユダがあれほどにとがめることはないとおもうけど、でも彼もいいこと言っているんじゃないの?」と思いました。「イエスさまはずっと貧しい人の味方であったし、贅沢したいなどとも考えてもおられないのだから」と感じたことを思い出します。
しかし、このマリアの行為には深い意味があったことをずっとあとで知ったのです。
当時のイスラエルでは、このようなよい香りを放つ油は様々な儀式に用いられました。旧約聖書では王や預言者、祭司が任命されるときにはそのような油を頭に注ぎました。「キリスト」と言う言葉は「油注がれた者」と言う意味です。つまり、ここでマリアがイエスさまに油を注いだということは、彼こそがキリスト、油注がれた者であることを告白することだったと言えます。特にラザロを生き返らせてくださったあとのことですからなおさらですね。イエスさまのお心に添ったもてなしをすることができた人は他にいるでしょうか?
マリヤはイエスさまのお話を聞くことがとても好きでした。イエスさまが訪ねてきてくださるたびに何もかも忘れてずっとそばにいて色々とお話をしたと思います。そのことでおもてなしで忙しい姉のマルタから叱責される有名な話もありますね。
もう一つ、油は特別な役目を果たしました。イエスさまは7節に「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。」と言っています。この言葉の通り、油は死者が放つ死臭を消す役目を果たすため、葬儀のときに死体に塗られたのです。つまり、この油はやがて訪れようとするイエスさまの十字架上での死を先取りしてそれを示すものだったと考えることができます。
ただ、マリアがそれを確かに予知をしていたかどうかはわかりません。弟子たちでさえ、何度となくイエスさまがご自分の死について語られましたが、まさか捉えられて死刑になるとはおもってもみないことでしたから。
それから、ユダの発言のことですが、あとの行為を考えると、彼は貧しい人のためというのはもしかしたら必ずしもそうではなく、自分のためであったのかもしれないとも考えられます。でも、私たちはこのユダを他人ごとのように思ってしまいがちですが、私たちの思いや行為にも、いつも神様のためではなく、自分のためと言う動機が隠されている可能性があるのではないでしょうか?
「自分は神様を信じているのだからきっとかなえてくださるだろう」神様にどうしてもこの願いを叶えてもらわないと承知できないという思いがあることに気づいて赤面するときがあります。突き詰めて考えると、本根は自己主張であるのに、神様はいつも自分の味方であり願い事を聞いてくれる存在であるかのように錯覚するという危険性を持っているということです。
当時の弟子たちも同じようではなかったかと思われる場面が度々見受けられます。また自分や家族以外のことで真剣に祈ることも少ないかもしれません。イエスさまが命をささげてくださったように、私達はなかなか自分の時間を他の人に費やすということさえもできないですし、ましてや命をかけてまで寄り添うこともできません。
マリアのこの行為は、イエス様から受けた大きな愛に対する心からの感謝の発露であったと同時に、十字架を目前にしているイエス様に深い慰めと喜びを与えることができた最高のおもてなしであったにちがいありません。
後奏: