ヨハネによる福音書 講解 第15回 「シロアムの池に向かって」
前奏:
聖書には「癒やし」の奇蹟がたくさん登場しますが、なかでも、池や川で洗い清めるという話がよくでてきます。5章では足の不自由な人を癒やされた「ベテスダの池」、そしてこの9章では「シロアムの池」です。もう一つ例をあげれば、旧約聖書においては、ヨルダン川でナーマンというひとが皮膚病を癒やして頂いたという箇所がよく知られています。(列王記下5:1-19)そして、イエスさまが洗礼を受けたのもヨルダン川でした。
イエスさまと弟子たちが歩いているとき、一人の盲人を見て、弟子たちは2節で「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか?」とたずねたのです。不幸の裏には、必ず罪があるという考え方です。当時、病、特に生まれつきの障害者は何らかの罪があるために神から罰せられた「のろい」としての結果であると思われていました。今の時代であってもそのように考えることもなきにしもあらずです。また、病気の種類によって忌み嫌う傾向がまだまだ根強くあります。精神病、不治の病、遺伝による病気、そしてここ数年起こっているコロナ感染者に対する思いです。
確かに、不摂生が原因で病気にかかったり、不注意で事故にあうこともあります。しかし、多くのわざわいは、当人の責任を超えたところで起こっています。
イエスさまは弟子たちに3節で「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」と即座に応えられ、その盲人にご自身のつばで、どろをつくり、盲人の目に塗り 「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われて彼はそのとおりにして癒やされたのでした。
ところが、このことでまた大きな騒ぎに発展していきます。
なぜなら、その時がまたしても安息日だったので、パリサイ人からの攻撃にあったのです。
ユダヤ人の指導者、パリサイ人たちにすれば、イエスさまを安息日を破った罪人として今度こそ捉えようと必死になっていました。盲人に事実関係を教えるよう迫りましたが、本人の言うことを信じきれないので、彼の両親までも引っ張り出しました。両親は自分たちの身に害が及ぶことを知っていたので、息子が生まれながらに盲人であったことと、今、彼が見えるという事実だけを話して、難を逃れたのです。両親の行動は実に賢明だったと思います。
パリサイ人は再度盲人を呼び出し、今度はもっと具体的に彼に問いただすことにしました。この問答はとても興味深いものがあります。なぜならその盲人のイエス様にたいする思いの変化がしだいに明らかになってくるからです。
最初のうちは25節で、「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」と両親と同じく客観的事実に基づいてだけ答えていました。17節では、パリサイ人たちの質問で「おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか」に対し、「あの方は預言者です」と答えました。しかし、次第に33節では「神から出ておられる方」だと言うようになり、そしてついに38節でイエス様に向かって「主よ、信じます」と信仰を表し、イエスさまを礼拝したとあります。
癒やされた人々の中でこのように、潔く、パリサイ人からの迫害も恐れず(事実、彼はユダヤの社会から追放されたのですが。)堂々とありのままを話し、信念を貫いた人をなかなか聖書の中でも見出すことはまれです。彼の小気味いいほどのセリフがあります。31-33に「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じないとは、不思議千万です。わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。生れつき盲人であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」とあります。
物乞いでぎりぎりのところで生きてきた人であり、人々からは神から呪われた者として扱われていた彼が、エリートのパリサイ人に対してこのように理論整然と話すことができたことが正直言って私には驚きでした。
みなさんはどう感じられたでしょうか?
シロアムというのは7節に「つかわされた者、の意」とあります。「使わされた者」とは誰のことでしょうか?イエス・キリストであるということがおわかりですね。盲人がイエスさまのお言葉に従い、シロアムで洗ったときに身体的な癒やしの奇蹟がおこりました。そして更に大事なことは魂の目が開かれたという事実なのです。
イエスさまに出会い、問題に触れていただいて、解決をした経験のある人の生活態度をここに見ることができます。
ところが、自分の願いが叶えられるという感動や感謝は時がたつと薄らいでしまいがちですね。そして、再び違う問題が起こったときには動揺してしまうのが私達の弱さだと思います。また、キリストの言葉を信じていくプロセスというのは、この盲人のようにスピーディーにはいかないと思いますが、一つ一つ積み木をつみ上げるように成長していきたいものだと思います。
ところで、今日は新年初めのメッセージということで、この話とは関係がないかもしれませんが、もう少しお話を加えたいと思います。
ローマ人への手紙8章28節には「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」とあります。この「すべてのことがともに働いて」の「すべて」の内容は、私たちにとってマイナスと思われるようなことも含まれていると私は信じます。更に大胆に申しあげますと「すべてに意味があり、恵みに通じる」と受け止めることができます。悪いことはすべて誰かのせい、悪魔の仕業と考えるのではないということですね。
エレミヤ書29章11節に「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている。。。。主のことば。。。。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあります。試練の時は冷静に受け止められないかもしれません。「自分にはできるだろうか」と思って迷ったり、不安になってしまいがちですが、大切なのは私たちができるかどうかを自分が判断する事ではないのです。希望の目標を定めたら、ベストをつくすのです。方法がわからないなら周りの人々の助言も聞きましょう。何よりも頼みとするのは、神様に力を与えていただくということをお伝えしたいと思います。そして、その結果を神様に栄光を帰しましょう。願い事がかなったことを自分の手柄にすると、元のもくあみになってしまいます。信仰というのは、私の信仰から来るのではなく、イエスさまの信仰に基づくものだからです。
私達を愛し、ご自身の御子さえも惜しみなく与えてくださった神様は、私たちのために最高の計画を持っておられるということを心と霊に打ち込むのです!
たとえその結果が自分の思いや願いを遥かに超えていたとしても、揺るぎない主への信頼を私達は普段から養いたいものですね。
2022年が始まりました。あなたはどのような抱負を描いていらっしゃいますか?
この一年も皆様の上に神様の大いなる祝福がありますようにとお祈りします。
後奏: