ヨハネによる福音書 講解 第1回 「ヨハネによる福音書」
今回からしばらくの間、講解メッセージの形式で、聖書の学びをしたいと思っています。最初に、ヨハネによる福音書を取り上げます。
まず、概略から述べたいと思います。
著者はヨハネということですが、2つの説があり、12弟子のひとりで「主イエスに愛された弟子」として有名なゼベダイの子、ヨハネであると言う説が主流ですが、エルサレムに住み、後に教会の長老になったといわれるヨハネだと言う説もあります。
福音書というのはヨハネの他にマタイ、マルコ、ルカがありますが、この3人の書き方や内容が似通っていると言うことで「共観福音書」と名付けられています。
作者たちは、それぞれ、読者の対象が誰かと言うことを良く考えて書いているようです。
マタイは、イエス・キリストを「ユダヤの王」という視点から対象はユダヤ人です。
マルコは、ローマ人を対象としています。
ルカは、「神が人となった」ことを強調していて、ギリシャ人を対象としています。
ヨハネはどうかというと「神の子」というのがテーマになっていて、全世界の人々を対象に述べています。
ヨハネは、3人の福音書が出来上がってから書いていて、一番新しい福音書になります。(AD85−95)彼はまた黙示録の著者でもあります。
最初にヨハネがどういう目的で書いたのかをズバリお話してから、それぞれの記事について学んでいきたいと思います。
それは、ヨハネの言葉に集約されています。
では、少しずつ読んで解説をしていきましょう。
この「初めに」という言葉は、旧約聖書の一番最初の「初めに、神が天と地を創造された」という言葉と同じです。
「ことば」と訳されるのは ギリシャ語の λογος (ロゴス)と言う言葉です。
ロゴスはギリシャ哲学では「宇宙の原理」とか「人間内在の理性」という意味で用いられています。ヨハネはこのロゴスに「無から有を造り、人格的な意味を持ったもの」として新しく解釈をしています。
ここで、疑問がでてきます。なぜ、ヨハネは言葉ということを繰り返し強調しているのでしょうか?
ヨハネがイエス様の言葉をただ単に、言われたことだけに言及しているのではなく、イエス様がどのようなお方であるか、そして何をなさったか、そしてその行為で何を伝えようとしているのかを述べています。ことばはイエス・キリストをさして、主の言葉がご自身とご自身のみわざを明確に表わしているというのです。
実はここで表現している言葉というのは、私達が意味する言葉ではなく、神様の口から語られた真理であって、これは、信仰を持って初めて意味を有する言葉なのです。すなわち、主の言葉は命であり、命とは神様であり、イエス様ご自身とみなしているのです。
まあ、こういってしまうと、まだ神様がおられるかどうか信じられない方々は、ここで意欲がだいぶ削(そが)れるのではないかと思いますが、もう少し忍耐をして聞いていただきたいと願います。
目に見えない神様を、人々はどのようにして信じてきたかというと、旧約の時代には神様が預言者にご自分のことばを託し、彼らが地上にいる者に神のみことばを伝えました。神様とみことばは、常に一緒なのです。そして、いよいよ神様はキリストをこの世に送ることにし 「ことばは肉となって、私たちの間に宿られた」のです。すなわち、言葉は、イエス・キリストのことをさしているのです。
少し、言葉という話題から離れますが、このような話を聞いたことがあります。
もちろん全員ではありませんが、深く真理を探求する科学者であればあるほど、現実の世界を越えたところに、神様の存在を感じるということがあるのではないでしょうか。
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。」
私達の現実の世界は見えることが前提になっているように思います。しかしながら聖書ではこのように、この世界は、すべてがことばである神によって創造され、保たれ、完成へと向かっていると語っているのです。
この「ことば」こそ、キリストであるとヨハネは考えました。そして、ヨハネはこの言を、キリストが肉体をもって生まれる前には、霊の状態で、天におられるキリストとして存在していたと捉えています。ですから、この1節を「初めにキリストがおられた。キリストは父なる神と共におられた。キリストは神であった。」と読み替えることもできるのです。
ヨハネの最初の出だしは、非常に哲学的な表現というか、よくわからない文章で始められているので、とっつきにくいかもしれませんが、このあと書かれているイエス様のご生涯の主なできごとの深い意味をこれから読んで味わいたいと思っています。今日はヨハネ福音書の序論で終わりたいと思います。