ヨハネによる福音書 講解 第6回 「枯れない水」 令和3年10月17日

礼拝プログラム:2021年10月17日

前奏:

賛美:                             一同

 

特別賛美演奏: オカリナ 新生讃美歌550番 「ひとたびは死にし身も」                                                                           

                         道夫宣教師

聖書朗読:ヨハネによる福音書4:3−29

メッセージ:題名:   「枯れない水」      恵牧師

祈り:                         道夫宣教師

聖餐式:

感謝の祈り:                   恵牧師

後奏:

聖書:ヨハネによる福音書4:3−29
3 ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4 しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。
5 そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、
6 そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。
7 ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。
8 弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。
9 すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。
10 イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。
11 女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。
12 あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。
13 イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
15 女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。
16 イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。
17 女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。
18 あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。
19 女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。
20 わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。
21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
25 女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。
26 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。
27 そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。
28 この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、
29 「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。

前回は、ユダヤ人でパリサイ派の超エリートのニコデモとイエスキリストの出会いについてのお話でした。今回は、彼とは真逆と言っても良いほどの人物(あいにく名前は書かれていません。)通称「サマリアの女」といわれている一人の婦人との出会いです。

 

イエスキリストと弟子たちの一行は、エルサレムからガリラヤに旅をするため、このサマリヤ地方を通過したのです。ガリラヤに行くには、二とうりの道があります。サマリアを経過するのが近道ですが、この道を選択した理由が他にありました。あとでわかります。まず、歴史的背景からお話を致しましょう。

 

イスラエルを統一したのは、有名な王ダビデでした。その息子で、後継者のソロモン王は、さらに、その王国を繁栄させました。ところが、ソロモン王の死後、すぐに王国は分裂し、BC931年、南ユダ王国と北イスラエル王国に分断してしまいました。サマリアは、北イスラエル王国の首都でしたが、BC722年、アッシリアの攻撃を受けて滅亡し、支配者階層の人びとは補囚の民としてアッシリアに連行され、サマリアはアッシリアの属州となりました。同時に、サマリアには異民族が連れてこられた結果、異教徒との結婚が始まり、ユダヤ教の一神教に偶像礼拝なども混ざってきたのでした。一方、南ユダ王国も滅び、バビロンに捕囚されましたが、エルサレムの神殿再興と帰還が許されました。そのとき、サマリア人たちは、神殿再興の協力を申し出たのですが、ユダヤ人たちに断られてしまいました。その理由は、サマリア人たちをユダヤ教信仰に忠実でない者として、忌み嫌ったからです。このことによって、サマリア人とユダヤ人の間の確執が強くなってしまいました。エルサレム神殿に対抗して、サマリア人はゲリジム山に、自分たちの神殿を築き、モーセ5書だけを正典とし、独自の「サマリア教」を作ったのです。

参照
1)モーセ五書:旧約聖書のうち、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を意味し、サマリア人はこれだけを正典とした。

2)ゲリジム山:イスラエル人がエジプトを出てカナンに侵入したのち,モーセの後継者ヨシュアは人々をこの地に集め,宗教連合を形成。以来宗教的に重要な位置となる。

さ!本題に入っていきましょう。

このサマリアの婦人とイエス様の出会いは、「ヤコブの井戸」でした。弟子たちは食料を買いにイエス様とは別行動だったのです。

参照:ヤコブの井戸
ヤコブの井戸:サマリヤの町、スカル(旧約時代はシェケム。現在はナーブルス)にあった井戸のこと。ゲリジム山の北東に位置している。この井戸はサマリヤ人の伝承によると、ヤコブが掘ったとされている。現在、この井戸は直径2.3メートルあり、下部は石灰石の岩盤を掘り込み、きれいな軟水を汲み取ることができるという。

 

時は正午の頃とのことですが、水汲みは朝早くにするのが普通ではないでしょうか?ところが、この婦人はこのような時間帯に来ていました。実は、わけありで、人々を避けていたからなのです。

 

イエス様が、最初にこの婦人に話しかけます。「水をいただけますか?」井戸は深く、水を受ける器も持ち合わせがありませんでした。

婦人は非常に驚きました。みればユダヤ人の男性です。お互いにユダヤ人とサマリア人は口もきかない間柄でしたし、しかもユダヤ人から蔑まれている存在であるはずの自分に、また女の自分に、丁寧に頼まれたからです。

彼女は相手が、さぞ喉が乾いているだろうということは見てわかってはいても、その要求をすぐには受け入れがたいほどの警戒心があったことが伝わってきます。その理由は歴史的背景にあったからですね。

なかなか、すんなりと水を汲んでもらえそうにもない状況下ですが、どうもイエス様の真意は、水を手に入れることにはなさそうです。会話の主題を徐々に変えていきます。

10節から、この「井戸の水」と「生ける水」について二人の話になっていきます。

婦人は「生ける水」がこのユダヤ人から手に入るのだと思ったのか、何度もひと目を偲んで汲みに来ることから解放されたかったのでしょう。どこにそんな井戸があるのか教えてもらいたかったのだと思います。どうやら、立場が逆転してしまいました。

 

すると、イエス様が突然、16節で「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」というのです。さて、婦人は困りました。なんとかごまかしたいところですがどうにもならず、彼女の「秘密」を告白する羽目になってしまったのです。

彼女は5人の夫と離婚をしていて、現在同棲している男性がいるようです。離婚といえば、一回でもすると、人から後ろ指をさされるという時代であったでしょう。(現在でもそうでしょうけど。)彼女の生活は、周囲の人々との交流が、かなり断絶していたという状況が想像されます。

 

しかし、イエス様はそれを聞いても、なんの驚きの反応もなさいませんでした。とっくにご存知だったのです。驚いたのは婦人のほうで、自分の事を言い当てたイエス様を「預言者」だと言い、尊敬の眼差しを向けはじめたことがわかります。けれども、まだ彼女はこのように主張するのです。20節で「わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」と。「ユダヤ人はエルサレムの神殿で神を拝み、私達サマリア人の先祖は、ゲリジム山に神殿を立てて神に祈りを捧げているのです。一体どちらが正しいのですか?」とかなり神学論争的な会話になってきました。余談ですが、この婦人は、本当は、かなりインテリだったのかもしれませんね。5人も夫をとっかえても満足できなかったというのも、かなり自立した女性であったのかもしれません。しかし、イエス様は、彼女の素性を聞いても、それを咎めたり、軽蔑したりはなさいませんでした。

 

さらに、イエス様は、話題を変えていきます。

「あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(22−23)

 

サマリア人はユダヤ人とは宗教的観点がだいぶ違ってはいましたが、「メシア信仰」は、彼女のはなしからでも共通していたことがわかります。<25節>

26節で、キリストは自分がメシアであることを告げると、彼女は一目散に町に走って行って、この出来事の一切をふれて回ったのです。

「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」(29)

 

この4章では、2つの大事なテーマがあります。

イエス様は、イスラエルの民と争っていた半分兄弟であるはずのサマリア地方の人々に「福音」を伝える使命を抱いていて、もうひとつの道をとおらず、ユダヤ人に敵対するサマリアにわざわざ足を運んだと言うことです。救いはユダヤ人だけではなく、異邦人にそして、さらに世界の人々に及ぶという真実を伝えています。

真の礼拝は、山や神殿(教会などの建物)というものの中で限定されるのではなく、むしろ、いつでも、どこでも、どのような状況であっても、真心を持って行う霊的な礼拝を神様は望んでおられるのだということです。

 

私達はコロナ感染がパンデミックに広がり、キリスト教会も、今までのように、毎週教会に集まれなくなったり、色々な企画もできなくなって、ズームで礼拝を試みたり、大きな教会は、二部制にして3密を避けたりしながら礼拝をまもっていますが、まだまだ困難な状況下にあります。その中で、残念なことに、集会をして、クラスターを発生したというニュースもきこえてきます。改めて、教会の存在意義を問うことにもなりました。

 

神様の救いは、人種や宗教の違い、地位のあるなし、道徳的か不道徳か等等で限定するのではなく、私達人類のすべての人を対象としていて、時間を超えて、また、空間を超えて、今、実現してくださるのだと言えます。

 

「あなたは渇きを覚えていませんか?生ける、枯れることのない真の水を手にいれたいと思われませんか?」
参照
サマリアに関わるヨハネ以外の新約聖書における記事を列挙しておきますので、興味のある方はまとめてご覧になれば、一層状況がおわかりになるかもしれません。

1.「サマリア人から歓迎されない」<ルカ 9.51-56>
2.「重い皮膚病を患っている10人の人をいやす」<ルカ 17.11-19>
3.「善きサマリア人」<ルカ 10.30-36>

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