前奏:
祈り: 道夫宣教師
賛美:
特別賛美演奏:オカリナ新生讃美歌540番「わが魂の慕いまつる」
道夫宣教師
聖書朗読: ヨハネによる福音書3: 道夫宣教師
メッセージ:「ニコデモという人」 恵牧師
感謝の祈り: 道夫宣教師
みことば朗読: 詩篇 23
1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。 女性
2主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。 男性
3主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
4たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
5あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
6わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。 一同
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
後奏:
ヨハネによる福音書 講解 第5回 「ニコデモという人」
16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
メッセージ:ヨハネによる福音書 講解 第5回 「ニコデモという人」
前回は、イスラエルの過ぎ越しの祭りの際に、イエス・キリストが神殿で行った出来事のお話でした。
今日はその後、あるユダヤ人が、イエス様を訪ねた記事を取り上げます。
その人の名前はニコデモです。
彼は、パリサイ派のラビ(教師の意味)で、1節に「ニコデモはユダヤ人たちの議員であった」と書かれています。サンヘドリンと呼ばれるユダヤの最高法院は70人の議員たちからなるユダヤの最高議決機関でした。その一員として、ニコデモは宗教上の裁判をおこなう務めを担っていたのです。
ニコデモは、社会的に見れば、ユダヤの上流階級に属するエリートです。年齢的にも、老境に達する頃になっていたことでしょう。このような人物が、こともあろうに、パリサイ派の人たちと激しく対立していたイエス様のもとを訪ねたというのです。
<精選版 日本国語大辞典より>
また、ニコデモは、彼の仲間であるパリサイ派の人々の間では「なんとしてもイエスを排斥せねば!」という議論が高まったとき「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と異を唱えた人でもありました。(ヨハネ7:47-52)
ナザレ出身で、無名の大工であった青年イエスさまに対して「ラビ」(先生)と呼んで敬意を表していますが、これは驚くべきことです。
おそらく、ニコデモは、イエスさまの教えに真理があると思ったのでしょう。何かを確かめたくて、危険も顧みずにやってきたと思われます。
イエスさまとニコデモの対話が記されているのですが、なんとも話の受け答えがトンチンカンな流れで会話が進んでいます。(聖書には、筋がよく理解できないことが多いです。)
彼は、イエス様に向かって、挨拶がわりに、このように話します。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(3:2)
礼儀正しく、尊敬の念を持って、その上に、イエス様を神からこられた方であると認めています。最高の賛辞ではないでしょうか!しかも、私はという個人的な人称ではなく「わたしどもは」と複数形にしていることから、もしかしたら他にもニコデモと同じようにイエス様を高く評価している仲間がいて、その代表として来たのかもしれません。
ところが、イエスさまはそれには反応せずに、3節でニコデモにこう言われます。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と突拍子もない話の展開をしていきます。おそらくニコデモは、動揺したことでしょう。おまけに、ニコデモの受け答えに対して、イエスさまから「あなたはイスラエルの教師と言えますか?」などとお叱りを受けてしまいました。エリートが台無しですね。
ところで、ニコデモが知りたかった本音とは何だったのか、皆さんは、この二人の会話からどのように想像されるでしょうか?
キリストが行った「しるし」の噂をすでに知っていて、しかも宮殿において、神の子としての宣言を直接聞いていました。また、その崇高な眼差しを見て、ニコデモは「この人物はただものではない。もしかしたら、本当に待望の救い主かもしれない。確かめなくては!」と思ったのではないでしょうか!
彼は、自分の知識で、それを判別出来る自信もあったでしょう。
もしかすると、心のなかでは、モーセの律法を守っている自分たちこそが、天国に入る条件を満たしているに違いないと自負していたのかもしれません。
もし、立派な生き方をすることや、良い行いをしたり、律法を守り、道徳を守るといった善人が救いにあずかる条件であったなら、ニコデモは真っ先に神の国に入れる人物だったかも知れません。
ところが、イエスさまによれば、それは神の国に入る条件ではなく、次のように語りました。
ここで、今日の主題ではないのですが、大事なことなので、再度お話をしておきたいと思います。多くのクリスチャンは、ここに書いている水のことを「洗礼」と同一視しているのですが、果たしてそのように解釈すべきなのでしょうか?
私は前にもお話をしたとおり「水の洗礼が救いの条件ではない」と考えている立場ですので、解釈を異にします。
「水」というのは、「清め」「悔い改め」を象徴していて、とても大事であるということには間違いありませんが、しかし、究極的には、イエスさまはこの水はいつかは渇れてなくなるものであると考えておられるのではないでしょうか?
それでは、「霊によって生まれ変わる」ということは一体どういうことなのかと言うことを考えてみたいと思います。
それは「古き自分は死に、新たに誕生するということ」すなわち、私たちの人生が根本的に変革されて、全く新しい視点で生きることを意味します。
ここで、「新たに」と訳されているギリシャ語ですが「アノーテン」という言葉です。この言葉には、三つの意味があります。
第一は、「完全に、根本的に」。二番目は、「ふたたび、 もう一度」。
そして、三番目は「上から、神から」という意味です。
この新しい生命とは、神さまから、上から来るのだということがポイントになります。私達自身が為せる技ではなく、それは、神様からいただく、上からの「恵」として受け取ることができる命のことを意味しています。
では、実際にそれを得るためには、私達はどうすればよいのでしょうか?
現時点で何もかもわからなくても、まず、イエス・キリストを知ろうとすること、受け入れることから始まります。自分の努力や力で正しくなろうとする道を放棄する事ではないでしょうか?
神様に全面的に自分を委ねること、神様が働いてくださる領域があるということを知ることです。これを実感するには、まさに日常生活においての体験に他なりません。神様のみことばを聞いても、素通りしたり、だれかの人生談話や哲学思想では「生まれ変わり」は起こらないのです。
私達が過ごしている一日の中において、時間が流れるままに過ごすのではなく、一つ一つの小さな出来事の意味を思いめぐらし、一つでも多く感謝をしていくと、神様のあたたかさや豊かさを感じ取ることが出来るのではないでしょうか?
マザー・テレサが、人知れず死にゆく人々の中に「キリストを見る」のだと言っています。彼女はどのような困難や貧しさの中でもそこに「永遠に続く宝」を見出しているのですね。
この夜、ニコデモは、目的を達することができず、おそらく落胆してこの場を去ったと思います。しかし、この出会いは虚しく終わったのではありませんでした。
まさに、始まりだったのです。その後、彼がどのような生き方をしたのかということをお話して終わりたいと思います。
ヨハネ福音書19:38−42に記されているのですが、十字架で亡くなったイエス様の遺体をアリマタヤのヨセフという人がとり下ろし、ニコデモは没薬と香料を持ってきて、この二人は、遺体を亜麻布で巻いてお墓に葬ったとあります。
ニコデモは、イエスキリストを単なる「ラビ」という存在から「我が救い主」として信じる生き方を選択したのです。
参照
彼らは、イエスの死体を取りおろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料を入れて亜麻布で巻いた。
イエスが十字架にかけられた所には、一つの園があり、そこにはまだだれも葬られたことのない新しい墓があった。
その日はユダヤ人の準備の日であったので、その墓が近くにあったため、イエスをそこに納めた。