受けるよりも与える方が幸いである

題名:「受けるよりも与える方が幸いである」          

使徒行伝 20章35節

わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。

 

はじめに、今回の手術において、私の家族、親族は勿論ですが、多くのお友達、知人からのご心配、お祈りの支援とともにメイルでのお励まし、必要を満たしてくださった近所の人々、また私に礼拝メッセージを喜んで迎えてくださった岩手県の教会(盛岡みなみ教会)遠く海外で祈祷会において連鎖祈祷をしてくださった姉の教会(ペニンスラーホープ教会)HPの読者その他の方々にこの紙面をとうして心から御礼を申し上げます。

 

それでは、今日のメッセージです。

マザー・テレサの名言集の中にもこういうものがありますね。

「私はひとつしか求めません。それは、決して与えることを恐れるなということです。与えるところには深い喜びがあります。なぜなら受けるものは与えるものよりずっと大きいからです」

 

ルカ638節に「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」

 

或いはマタイ108節に「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」という有名なみ言葉が聖書にあります。

ところが、「受けるよりも与える方が幸いである」というそのままの言葉は福音書には記されていません。

皆様はこの言葉を聞いてどうお感じになられますか?

人生を豊かに生きる処世訓として有益であると感じられるかもしれませんね。

 

作家の三浦綾子さんは、小説「続氷点」の中で、

「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」。これは、ジェラール・シャンドリという人の言葉の引用です。」

 

また、あの天才物理学者アインシュタインもこう言っています。

「人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる。」と記しています。

 

ある人は、「これはよく分かりますよ。なぜなら、受けるよりも与える方が気持ちが良いからでしょう。」というかもしれません。これは非常に素直な気持ちからの感想だと思います。

実は私もそうなんですね。(^o^)

ところが、

人から何かをもらったり親切にしてもらったり厚意を受けることは嬉しいことなのですが、反面それによって自分がその人に対して負い目を感じることになるかもしれないと感じるときがありませんか?すぐに、何かお返しをしなければならないと条件反射のように行動する方もいらっしゃいます。義理堅い人だと思いますね。

ですから、一般的に私たちは人から「受ける」ことがあまり好きではないのかもしれません。

ただこれは特に日本の社会においての傾向だと思います。

外人は「別にこんなことしなくてもいいのに」と前置きをしても喜んで受ける方ですよね。

 

ところが、もしあなたが親切にしたとき相手の人が全くお礼もいわず当然のようにその親切を受け取るとがっかりしませんか? 私などは憤慨しますよ! 

「なんて礼儀のない人なんだろう。有難うとも言わないで」と。

或いは、何かの厚意を表そうとした時に「結構です。余計なことをしないでください」などと言われるとどうですか?本当に悲しいですよね。もう二度とするものかとさえ思いませんか?

 

 

元気な時に献身的に人のために尽くしてきた人や多くのものを人に与えてきた人が年を取って或いは病を得て人から助けられ支えられなければならなくなった時に素直に人の世話を受けることができないということがしばしば起きます。

 

自分の弱った姿を人に見られたくない!昔はきちんといろいろなことが出来ていたのが今は出来なくなってしまった。このような自分を知られたくない。

そういう思いから支えや助けを受けたくないということが理由になっているのかもしれませんね。

「自分が人に親切するることは良い。けれども、人から親切を受けることは好まない。」

これは武士道につながるのでしょうか?

 

教会の中でもそのようなことがありませんか?。

説教のなかにでも「受けるよりも与える方が幸いである」と奨励されることによって、キリスト者は与えることに一生懸命になります。しかし、その反面受けることが難しくなっているということはないでしょうか?

 

ヘルマン・ホイヴェルスというカトリック教会の神父で上智大学の学長をなさった方が

『人生の秋に』という本を書かれています。

その中に「最上のわざ」という詩が紹介されていてこのようなことが書かれています。

 

「若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず/人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり/弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物/古びた心に、これで最後のみがきをかける。/まことのふるさとへ行くために。/こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。

 

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。/それは祈りだ。/手は何もできない。

けれども最後まで合掌できる。/愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。」

 

人の親切や厚意を素直に受けるということは、ある意味大切な愛の行為なのではないでしょうか?

なぜなら、受けることによって与える人を喜ばせることができるのではないでしょうか?

これはまるでパラドックスのようですが、与えていると言う事に他なりません。

与える人も受ける人がいるからこそ純粋なこころで与えられる事ができると思うのです。

ですから、基本的には受ける人は何も心苦しく思う必要はないのかもしれませんよね?

 

ここで、一つ注意をしていただきたいことがあります。

パウロのこの言葉は「どちらの方が私たちにとって大事なのか?」という話をしているのではないということです。

 

この言葉は、エフェソの教会の長老たちにパウロが語った告別説教の最後の部分なのです。

パウロはここでエフェソにおける自分の生活を想い起して欲しいと言っています。

 

では、パウロはエフェソにおいてどのような生活をしていたのでしょうか。

33節でパウロは「私は、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません」と言っています。そして、34節では「わたしはこの手で私自身の生活のためにも共にいた人々のためにも働いたのです」と言っています。これがパウロが示した模範といえます。

つまりそれは、人の世話にならず自分の生活費は自分で稼いだということです。

 

しかし、

彼はこのようなことを何故敢えて言わなければならなかったのでしょうか?

それには理由があります。

パウロの反対者たちは「パウロという男は金銭を目的に奉仕をしているのだ」といういわれのない中傷を繰り返していました。

キリストの使徒として立てられたパウロが、御言葉の奉仕をする時に報酬を得ることは当然のことなのです。パウロもそのことをはっきりと主張しています。

しかし、彼自身はそうしませんでした。なぜでしょうか?

 

信仰に入ってまだ日が浅い幼い信徒たちがそれによってつまずくことを避けたかったのです。

受け取る自由も受け取らない自由もある。そのことを承知の上で信徒をつまずかせないために受け取らない方を選んだのです。

この与える幸いを文字通り実践されたのが主イエスさまご自身でした。

神様に逆らい教会を滅ぼそうとしていた自分の計り知れない罪をイエスさまがすべて引き受けてくださり、十字架にかかって死んで下さったのです。

それによって、自分の罪が赦され全く新しくされて御言葉を宣べ伝える者とされたのでした。

この大きな恵みにパウロは打ちのめされたのです。

そして彼はその恵みに押し出されて御言葉を人に伝えました。

そして与えることの幸いを知ることができたのです。

また、パウロが「与える」ことの幸いに生きることができたのは初めに神様からの恵みを受けたからですよね。恵みを受ける幸いを知ったからなのです。

ですから喜んで御言葉を人に与えることができたのではないでしょうか?

 

 

まとめます。

私は、単に与えることが受け取るよりも良いということを奨励しているのではありません。

パウロはこの両方が重要であると信じていました。

 

私達は、生活において神さまの恵を豊かに受けているでしょうか?

 

キリストの真の愛をまた友達からの深い厚意を十分に味わってこそ、私達はまた他の人々に愛を分かち合うことができるのではないでしょうか?

与えたり受け取ったりすることを心から喜ぶ人生を送りたいと思いますね。 

 

主の祝福が今日も皆様に輝きますようお祈り致します。

                     

おすすめの記事