上の写真はケララ州の産業、椰子畑
聖書:
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
前奏:
ネパールのあと、私の望みは緩和医療をもっと学びたいということでした。夫は「今までは僕の希望で移動してきたのだから、今度は恵の希望を叶えてあげたいね。」と言ってくれて、緩和医療医のディプローマを通信教育でとれるオーストラリアのEdith Cowan Universityに入学手続きをしてくれて彼も一緒にコースを取ることになりました。理論は通信教育で、実地はオーストラリアか南インドのケララ州のカリカット大学の両方が用意されていました。夫がロンドンでの熱帯医学と公衆衛生の修士論文がケララの地域医療だったことと経済的に安価だったのでケララに行くことにしたのです。
三男の宣道は高校の最終学年を迎えていましたので、ネットで寄宿舎のあるインターナショナルスクールを探したところ、九州、福岡市の博多区にあったのです。
私達がケララに出発するまでの3人の住居は学校の近くに借りる必要がありましたが、なかなか気に入る物件がある不動産屋がありませんでした。私達が探し疲れて町を歩いていた時にふと小さな不動産屋が目にとまったのです。こんな小さな不動産屋に気に入る物件などあるはずがないと思いましたが、「どうか良いところがありますように!」と祈りつつ入ったのです。すると、オーナーが6ヶ月後に入る予定なのでそれまでだったらという条件付きのアパートがあったのでした。家具、家電はレンタルにして私達にはピッタリの条件でした。神様は私達のこのような小さな願いをもきちんと聞いていてくださり最善を尽くしてくださるお方だと改めて襟を正した思いでした。「主よ!不信仰な私をお赦しください。」
教会もネットで探し、アメリカの宣教師がご自分のアパートで礼拝をしていましたので参加するようになりました。その通信教育が終わり、宣教師の先生がオブザーバーになってくださって最終試験を監督してくださったのです。そしてその後、幸いにも合格通知を受け取ることができました。そして、宣道を学校の寄宿舎に入れて私達はケララに出発をしたのです。
カリカットに到着して、私達はまず3星のホテルに滞在することにしました。シャワーはなく、大きなバケツに水を貯めて手桶で水を掛けるものでした。大きな音がするエアコンでしたが幸いにも備わっていて室内は快適でした。ホテルから外に出るといっぺんに汗が吹き出てくるほど40度をこえそうな猛暑です。長期滞在なのでまず机と椅子を2つお願いすると,すぐに小学生用のものを持ってきてくださいました。朝、晩の食事はホテルの食堂でしますが、その美味しさは格別なのです。このホテルの食堂は美味しさでは有名らしく夜は客で一杯になっていました。私は特にバターナンが好物で毎回お願いしました。カレーが主なメニューですが色々な種類があり、二人共カレーは大好きなので飽きることはありませんでした。しかし、カロリーが多いので私は超肥満になってしまいました。
ある日、私は日本からお醤油とみりんを持参していたので、それをお土産にして地下室のキッチンに行き、「日本人ですが」と自己紹介をしてカレーを作るところを是非見学したいと大胆にも御願いしたのです。すると、白い帽子のシェフたちが驚いていましたが、一斉に笑いながら拍手喝采をしてくれて許可がでたのでした。沢山のスパイスを入れ、最後にココナツミルクをたっぷり入れていました。おかげさまでケララカレーは私の自慢のレセピーになりました。
バプテスト教会の英語礼拝に通っていたのですが、マラヤーラム語を学ばないといけないので、そこの長老さんであり元教師の先生に毎日ホテルに来ていただいてレッスンを受けることにしたのです。しかし、いやはやなんともこの言語だけは今まで接した外国語の中では超難関でした。二人は懸命に学びましたが刃がたたず、残念ながら発音が一度たりとも人々に通じたことがなかったのです。しかたなく英語での交流でした。しかし、この学びを通じてこのイポ先生のひたむきな信仰とご人格に触れることができたのは何にも代えがたい出会いでした。
カリカット大学に通うのはバスでしたが、ギュウギュウ詰めで汗だくになってしまいました。休みの日にはこのオートリク車に乗ってアラビア海に面しているホテルで、氷のように冷たいビールのあるレストランでランチを楽しんだものです。
午前中は緩和医療外来で患者さんを診察し、午後からは医師、看護師、ソーシャルワーカまたボランティアの方々とチームを組んで、いくつかのグループに別れて車で在宅訪問です。交通量が多い上に、ものすごいスピードなのでハラハラでした。
ボランティアのお宅にお寄りした時に近所の方が集まってきてくださり、私たちのために高いヤシの木に登って椰子の実をとってくださり水分補給にとくださいました。ご婦人たちはヤシの皮でロープやフロアマットなど色々なものを作って収入にしていました。
訪問時は痛み止めのモルヒネ錠剤はじめ医薬品の他にお米やくだものなどを必ず持っていき、生活の支援も同時にしているのにはとても感動しました。このケララではボランティアの活動が盛んなことが特徴です。特に引退教師が中心になって指導し、一定の研修を終了した人々や高校生達も参加をしていました。
当時、ケララの地方ではヒンズー教、仏教、キリスト教別に6:2:2ほどの割合で宗教別に村落があって宗教観の違いで村の中での争いがないようにできていました。それぞれの村のボランティアが私達を案内してくださっていましたのでとてもスムーズに住民と交わることができたと思います。
私達が訪問したときの患者さんとご家族の写真の一部をご紹介します。
中央の男性が肺がんで痛みがあるとのことでモルヒネを持参して訪問をしました。次からは定期的にボランティアが訪ねて様子を報告してくれて薬が切れないようにしていました。右が奥様です。
右の写真は15歳の少女が脳腫瘍で昏睡状態のときに私達が訪問をしました。クリスチャンのご家族ということで日本語でしたが夫と私は賛美歌「キリストにはかえられません」を歌い、共にお祈りをしたのです。その後、数日して安らかに息を引き取り天国に帰られたということをお聞きしました。
このケララ州は経済的に他の国と比較しても非常に貧しい地域なのですが、女性の識字率が100% 実現したと言うことを聞き驚きました。しかも、このケララの識字という意味は単に読めて書けて理解してということにとどまらず、新聞を読んで批判や評価もできるというレベルだというのです。
現在の日本は緩和病棟もホスピスも、在宅緩和医療もかなり整っている国だと思います。それなのに未だに痛みに必要な麻薬を使うことに躊躇する医療者も多く、日本での医療用麻薬の消費量はまだまだ適正使用量に達していない情況です。
また、なにか新しい試みをする時、先ず仕組みや制度を作り、専門職あるいは資格者を養成し、国と自治体で組織化してからという風に慎重に形を作って住民への福祉なり医療なりを広めていくということが一般的ではないでしょうか?しかし、そうではなく、先ず助け合いの心があって、「なんとか助けたい!」という「やむにやまれぬ願い」が医療や福祉に携わる人々を動かして、待ったなしで実現していったが故に、ケララでは緩和医療を地域の隅々まで広めることができたのではないかと私は思うのです。
色々整ってから動き出すとなると時間がかかり間に合わない人々がでてきますし、たとえ制度があっても知らないためにその恩恵に預かれない場合も大いにあると思います。今、苦しんでいる人がいるならば、その方々の周りにいる私達が持ち合わせている術(すべ)はたとえ不完全であっても、その時最善を尽くす勇気と努力をすることこそが必要なことではないかとケララにいて考えさせられました。(つづく)
後奏: