令和5年1月15日 礼拝メッセージ:証集:海外での主のめぐみ:ネパールでの証(2)、「出会いの喜び」

上の写真は、アンナプルナです。

 

聖書:

テモテへの手紙1:2章4節
神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。

 

前奏:

 

ネパール語は語順が日本語と似ているので助かりました。例えば、「私の名前は恵です。」というのは、ネパール語にすると「メロ(私の)ナーム(名前は)めぐみ ホ(です)」となります。日本人には比較的とっつきやすい言語ではないでしょうか?でも、文字はこのように,とても難しいので諦めました。

「मेरो नाम मेगुमी हो।」

 

私のネパール語の先生は、Mr.Giri Manoj( ギリ マノジ)でした。彼は弁護士で日本にも留学されていたので日本語もわかる方でした。いつもチャイ(シナモンなどのスパイスと牛乳、お砂糖が入っていてとても美味しい。)を作ってくださっての楽しいレッスンでした。とてもお綺麗な奥様のウサさんと幼稚園児だったでしょうか?可愛い坊やのマンディブがいて家族ぐるみでお付き合いをさせていただきました。

 

Giri先生ご一家

チャイ

 

夫の母は今年7月で98歳を迎えますが、私達が在外生活のときにはアフリカとロンドン以外は、いつも訪ねてくれました。約1ヶ月ぐらいの滞在をとても喜んでくれて、その中でもネパールの訪問は一番楽しかったと言っております。

母と3人の息子たち

滞在中のエピソードを少しご紹介したいと思います。義母は洋裁が大変得意でスーツから社交ダンスのドレスまで自分が着るものはすべて手作りです。それで、ネパールの生地屋さんを数カ所案内したところたくさんの生地を買っていきましたし、紅茶の好きな方ですので、ネパール東部の美味しいイラムの紅茶を帰国後もギリ先生にお願いして送っていただいたほどネパールびいきでした。また、休暇のときには一緒にタイのプーケットにも足を伸ばし、バンコクでは有名なシルクの生地も買って見事なスーツを作ったこともありました。ところがこういうハプニングも笑い話としてあったのです。

 

義母は、ブラジルの時もそうでしたが果物が大好きで特にマンゴーやパパイヤのようなトロピカルフルーツが好みでしたので、インドからマンゴーをトラックで運んでくる問屋さんをギリ先生から教えていただき、ダンボールに一杯買いこんで、毎食後に大層喜んで食べていたのです。ところがある日、口の周りが腫れてオバキューのようになってしまったのにはびっくり!マンゴーの食べ過ぎ、アレルギーが発症したのです。

 

当時「ヘナ」という頭髪の染料がとても流行していました。義母が髪を染めたいとのことで日本人がオーナーの美容院に案内したのです。その後、私は買い物があったのでしばらく外出して帰ったら大変なことになっていたのでした。「恵さん!この髪の色、どうしてくださるの!」と立腹されたのです。まあ!それもそのはず、茶色に染まっていると思いきや明るいオレンジ色だったのです!「キャー! どうしましょう!」すぐに美容院に駆けつけて染め直していただいたのです。ところが、その後、染めた色がヘナと相まってとても気に入ってくださりホッと胸をなでおろしたのでした。

 

ある日、私と同郷の鈴木玲子さんが(交流の場でおなじみ、素人離れした写真をホームページに載せてくださっている英語塾の先生です。)お友達と一緒にネパールに旅行したいというお手紙を頂きました。その頃、韓国教会の牧師先生からチトワンというところで、宣教師ご夫妻が孤児たちを育てているというお話を伺っていましたので、一度お訪ねしたいと思っていたのです。鈴木さんは多才でマジックがとてもお上手でしたので、是非そこで披露していただきたいとお願いしましたら快く承諾してくださいました。また、彼女のお友達にも日本舞踊をお願いすることにしたのです。

 

彼女たちがカトマンズに到着して数日後に、私達3人はチトワンに向かいました。プロペラ飛行機に乗ってチトワンに飛び立ったのですが、途中で悪天候になりまたカトマンズに戻ることになりどうなるのかと心配しましたが、また飛行許可がでて無事にチトワン空港にたどり着きました。まずはホテルまで人力車2台で行きましたが、それが珍しくてまた、大きく揺れたのがちょっぴりスリルもあってなかなか楽しい女性3人の旅になったのです。観光では象にも乗り、まるで子供になった気分でした。

 

鈴木玲子さん

チトワンにて象にのる

3人娘のボートクルーズ

その後、バスで宣教師の孤児院につき1泊させていただくことになりました。夕食後に広い体育館に子どもたちが続々と集まり、お二人のパーフォーマンスに子どもたちは大喜びで拍手喝采だったのです。その後、子どもたちが喜んでダンスをし始めましたので私達も一緒に踊ったのです。毎晩、子どもたちは音楽に合わせて踊るのだそうです。なぜなら踊るということで悲しみや寂しさが吹っ飛ぶのだということを宣教師から聞いて私はとても胸が痛みましたが、同時に希望の光を見た思いでした。身体で気持ちを表現できることがいかに慰めになって明日への力となり、心を豊かにするのかと認識を新たにさせられました。

            

最後に、私達のネパールでのプロジェクトをご紹介したいと思います。

               

これはチトワンの宣教師に伺ったのですが、西のドティーというところは山岳地帯で交通事情が悪く、病院へ行くにも歩いて1週間かかり、経済的活動も困難で貧しく、娘たちはインドへ出稼ぎに行く土地です。トイレもなく、安全な水もないので寄生虫や下痢などが日常茶飯事だということでした。村人の希望を聞くと水道を設置したいということでしたので、早速募金を始めました。息子たちの通うインターナショナルスクールの校長に募金の御願いに行きましたがなかなか集まりませんでした。そこで、思いついたことがありました。家の近くの3星ホテルに行き、できるだけ安く借りられるように交渉をしたのです。大きなホールを貸し切りにし、飲み物はホテルの利益がでるようにお客さんがそれぞれオーダーをし、その代わり食事は私が出すというディナーショーを企画したのです。「Korean Night」と称して、デイナー券を発行しました。食事とともに夫が習っていたバンスリという横笛の先生(Mr.ラーマン.マハラジャ)が中心で編成している音楽グループのみなさんが無料で演奏をしてくださるということになりました。

ラーマン先生

韓国教会のご夫人がキムパブ(韓国のり巻寿司)を作って協力をしてくださいました。私はプルコギ(焼き肉)はじめ,チャプチェなど色々なお惣菜をできる限り用意したのです。また、韓国大使館に行き韓国の国旗を借りてきました。開幕に三男宣道が韓国の国歌をトランペットで吹き、ネパールの国歌はバンスリのグループが演奏をしてくださいました。

 

韓国の夕べ(募金イベント)

ラーマン先生の民族楽器演奏グループ

参加の方々

 

ドッティの村

こうして山の泉から2㎞のパイプで学校まで水を引くための資材購入の資金を捻出できましたので、夫と私は飛行機に乗りその後、2泊しながら車に乗ってカトマンズを出発して3日目についにドティーの山の中の小さな小学校に着いたのでした。村の人々が学校に集まり会議をし、村人が資材を利用して工事を自ら行うことになりました。まもなく素晴らしい水道が学校に設置されました。

村人も集まってきてくれました。

ドッティ郡の山の小学校

学校の教室

村で会議、2㎞先の山の泉から小学校まで水を引くことに決定

小学校の子供達と夫の道夫

 

義幸はネパールを最後にアメリカのオーガスターナという大学に入学をし、宣道はネパールから日本に帰国し、福岡のインターナショナルスクールを卒業してアメリカのワシントン大学に進みそれぞれ私達の元から飛び立っていきました。夫と私はその後、インドのケララ州のカリカット大学で地域緩和医療6ヶ月コースを研修したのち、長い在外での旅を終え帰国したのでした。

 

私達は人生の中で多くの人々と出会います。まず家族、学校、そして社会において。言い換えれば、私達は出会いを通してお互いに影響を与えたり受けたりしながら生きている存在だと言えるかもしれません。

 

昨年の5月から私の生い立ち、韓国留学、結婚して家族との20年間、8カ国での海外生活において出会った人々や出来事を皆様と分かち合うことができたことは私にとってこの上ない光栄であり、また喜びとなりました。次回、ケララでのお話を最後に「証シリーズ」を終了し、また新たな歩みを続けてまいります。

 

皆様のそれぞれの出会いの中で、神様の祝福がさらに豊かにありますようにとお祈り致します。

 

後奏:

 

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