令和3年12月26日 ヨハネによる福音書 講解 第14回 「キリストが生まれたわけ」

ヨハネによる福音書 講解 第14回 「キリストが生まれたわけ」

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聖句:

ヨハネ福音書8章:1節−1節1
1 イエスはオリブ山に行かれた。
2 朝早くまた宮にはいられると、人々がみもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
3 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
4 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
5 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
6 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
7 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
9 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
10 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
11 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。

昨日はイエス・キリストのご聖誕を記念してお祝いをするクリスマスでした。

みなさんはどのようにお過ごしになられましたか?

 

今日の箇所は、とても有名で、多くの説教者が一度はメッセージをされるところだと思います。特にストーリーの内容においては困難な箇所もなく、すんなりと理解ができて、その場面をリアルに想像することができます。一人の姦淫の現場で捉えられた女性を律法学者やパリサイ人がイエス様をおとしめようと計画を練って、わざわざ連れてきたのでした。

 

当時は現在の倫理観とは全く違う時代背景がありますので、少し説明を加えたいと思います。「姦淫の罪」というのは、ユダヤの律法では、非常に大きな罪で、殺人の罪や偶像崇拝と並ぶほどの重大な罪であったのです。旧約聖書のレビ記20章や申命記22章には、この姦淫の罪に対する刑罰として、はっきりと死刑が規定されています。しかもその死刑は、石打ちによって執行されるのが常であったと言われていますから、律法学者たちのこの言い分は、当時の法においては全く正しかったのです。

 

それと比較して、今の時代「姦淫」といえば、結婚している人の不貞を単に「浮気」として軽く考える傾向があると思います。特に芸能関係のスキャンダルの多くはこの筋の話ですので、それらを聞いて忌み嫌うと言うよりはゴシップとして興味をそそる話にもなりかねません。ですから「罪」に関する捉え方の差が大きくあるので、どうしてこれほどまでに大げさに「姦淫」を問題視するのかと理解しにくいかもしれません。

 

ここで、まず、罪ということについてですが、英語では罪を表すのにCrimeとSinの二つの言葉があります。Crimeとは犯罪、すなわち法的に裁かれる外に出た罪のことです。それに対してSinとは内面の罪で外には出ないけれども内面の思い、怒り、妬みや貪欲な思いのことを意味します。このSinこそがCrimeを生む根源であり、この内面の罪が解放されない限り、外面の罪はなくならないのではないでしょうか?この内面の罪をキリスト教では原罪=Original Sinと呼んでいます。

イエスさまの時代はモーセの律法を犯すということは、Sin以上の犯罪(Crime)としてみなされていて、それを犯すことは致命的なことであったのです。

 

次に、少し視点を変えて、イエス様はどういう人々とのまじわりがあったのかを思いだしてみましょう。当時個人の罪やその家族の罪の故に病気になったと思われていた人びと、社会でさげすまれていた職業の取税人たち、生まれながらにして障害を持っている人びと、数え切れないほどの貧しい人々、サマリヤの女性のように性的な倫理観が乱れている人などは社会の底辺にいる人として扱われていました。いわゆるレッテルをはられているような人々でした。イエス様はそのような、人々が忌み嫌い避けていた方達の真実な友でありました。「朱にまじわれば赤くなる」ということわざがありますが、この意味は、人は関わる相手や環境によって、その人の人格さえ悪くもなるということですね。つまり、否定的にとるならば、そういう人々と付き合っていると自分たちも社会から信用されなくなる、だから交わってはいけないということになります。ところがこの世の考え方とは正反対に、イエス様はそのような人々と親しく交わられたのです。

 

一方、当時の律法学者やパリサイ派の人々は、胸を張って「わたしは律法を完全に守ってきました」と言える人びとでした。彼らのように「私は間違っていません!」ということが私達の生活の中でも起こることがありますね。実は私も面と向かっては言わなくても心の奥ではそう叫んでいるときが少なからずあるのです。これは精神衛生上良くないですね。こういう時の私はパリサイ人になっているのだと思います。

 

イエス様は11説で「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」とその女性に語りました。その場には訴えていたユダヤの律法学者とパリサイ人の姿はありませんでした。イエスさまが7節で「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われて、彼らは誰も石を投げることができず去っていったからです。

 

律法学者とパリサイ人達は、イエスさまにマニュアルどおり、モーセの律法を守ってこの女性を彼らの手に委ねて殺させるのか、それとも、罪人たちを友としてきたイエスさまが律法に背いてでも彼女を助けようとするのかのニ者選択を迫っていたのです。律法を守る立場をとるなら、今までの生き方が否定されて民衆への裏切り者として抹殺されるだろうし、或いは、安息日を破ったときと同じように、律法に違反をして彼女を赦すならばそれこそ彼らの思うツボ、即刻裁判で処刑できると目論んでいたのですが、どうやら失敗に終わってしまいました。

 

ここで私が語りたいのは、このようなイエスさまの賢明な対処の仕方をお伝えすることではありません。イエスさまがなぜこの世におうまれになったのかということなのです。

 

イエスさまの赦しのお言葉を受けて、この女性はふたたび生きることができました。救われたのです。どれほど感謝したことでしょう。しかし、イエスさまというお方を、自分の危機を救ってくださった大恩人ではあっても、その時はおそらく、まだ本当の赦しの意味を理解したとは考えられないのです。自分を罪に定めなかったこのお方がやがて罪人として十字架につけられるとは思いもよらなかったことでしょう。「罪の報酬は死」なのです。それゆえに、彼女の罪の身代わりにキリストがその死の裁きを受けたのだということを後になって初めて彼女はその重みを実感したと思います。赦されたと心から信じる人であるならば、イエスさまの真実を悟ることができるのだと思います。

 

私たちはどうでしょうか?

あなたは神様から赦されるべき人間であるとお考えになるでしょうか?

そして、さらに、その赦しはキリストの誕生のはるか以前からご計画され、現実に飼い葉桶でお生まれになり、十字架で血を流され、復活されて、今日、私達と共に生きて働いて、最後の最後まで私達をお見捨てにはなさらず、愛しとおしてくださる存在として(真の贈り物)イエスさまを受けいれたいとおもわれるでしょうか?

 

クリスマスという日は単に「Happy Birthday to Jesus」ではないのです。

主が地上に来てくださったことを心から感謝しながら、来たる新しい年に向かって期待をしつつ、たとえどのような試練に直面しようとも、勇気をだして、主のお導きを信じて共に進んで参りましょう!

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