
聖書の御言葉:
前奏:
「証とはなんですか?」と質問されることがよくあります。キリスト教では、神様から頂いた恵みを人びとに伝えることを「証をする」と言います。今回から、しばらくの間、メッセージというあらたまったものではなく、これまでの私が歩んできた人生の中で、神様からあふれる恵みをいただいていることの一部を皆様とお分ちできたらと思っています。私のプライバシーに関わりますので公開許容範囲内ではありますが、できるだけ事実に添ってお話ができたらと思っています。
さて、どこからお話しをしようかなと迷ったのですが、なんと言っても私の青春のページからご紹介したほうがわかりやすいと思いました。ただ、随分と昔なので正確さにかけている点もあるかと思いますがご了承願います。
小学6年生に父から贈られた「シュバイツァー博士」の伝記を読んで、私の脳裏に稲妻が走ったような衝撃を受けたことを今でも思い起こします。大胆にも「アフリカ医療宣教師として私の命を捧げたい!」と思ったのです。ところが、現実はそう簡単に医学部に入れるわけがありません。
見事に坂を転げるように2浪をしていた時に、「韓国の医学部に道がある!」という話をしてくれた友人がいたのです。「どこでもいい、医者になれれば」と思いました。ところがその情報をくれたのが「文鮮明の世界統一神霊教会」だったので断念せざるをえませんでした。しかし、私は諦めきれず、祖母と母と一緒に「私を受け入れて下さるホストファミリーを与えてください。」と早朝の5時に起きて熱心に祈っていたのです。
マタイによる福音書18:20
「二人または三人がその名によって集まるところには、私もその中にいる。」とありますが、私には二人の祈ってくれる強い味方があったのです。
祈ってから1−2ヶ月たったある日、韓国の車潤順(チャーユンスン)という小説家が日本での出版のために来日していたとき、当時日本キリスト教団の富士見町教会の牧師であった島村鶴亀先生よりご紹介を頂きました。上京し、私の希望を車さんにお話をしました。彼女はとても熱心に聞いてくださって、尽力をつくしてくださるということでした。その後、車さんが在日韓国大使館に私が留学できないかと問い合わせをしてくださったり、韓国に帰った時に大学に交渉をしてくださって、2つの大学が私を受け入れてくださる可能性があるということでした。
一つは慶熙大学( キョンヒ)の男女共学、もう一つは梨花女子大学の医学部でした。前者は大学内に語学研修システムが整っていて、一年間はそこで韓国語を勉強しなければなりませんでした。後者は直接医学部に入ると言う事でしたので、私はできるだけ早く入学したかったため、梨花女子大学を目指すことにしました。
入学するための条件が2つありました。一つは高校の平均成績が4以上、もう一つは韓国語が流暢にできることでした。当時、日本には日韓と韓日の2つの辞書しかありませんでした。ソウル大学にある語学研修所で1ヶ月、韓国語の集中コースにはいる手続きもしていただいていたのです。はじめてハングル(한글)という文字を見た時、記号のような文字だなという印象を受けました。
日本でも医学部に入れない私が、言葉も環境も違う韓国で、しかも難しい医学の勉強などとうてい不可能だというのは常識でした。けれども、私にはなぜか「必ずやれる。やってみせる!」という確信があったのです。なぜなら、これは神様が私に門を開いてくださったと信じたからです。「盲蛇に怖じず」とはよく言ったものですね。
車さんは、留学ビザを得る手続きのために、私を南麻布にある駐日大韓民国大使館の大使に合わせてくださいました。その時、最初に覚えた韓国語で挨拶をしたのですが、大使は私には目もくれず、終始車さんと韓国語だけでお話をしておられなんだか険しい表情がとても気になりました。しばらくして、大使が書類に大きな判をドンと押して留学ビザの書類を手渡してくださったのです。あとでどういうことだったのかと車さんに聞きました。
本来ならば医学部への留学は中止となっていて認められないということだったそうです。その理由は、日本の高官の子女が高麗大学の医学部にたくさん入学したらしいのですが、一人も卒業ができずこれでは韓国の医学部のレベルが落ちるということで認めないことになっていたそうです。ところが、車さんは「大田恵さんは、牧師の家庭で育ち、将来韓国の無医村で奉仕をしたいと考えている人です。お金や名誉のために医者になる人ではありませんから、どうか留学ビザを出してください。私が責任を持ってこの人を預かります。」と粘り強く大使にとりなしをしてくださったことを聞いて鳥肌がたったほど感激をしました。
こうして、私が予想もしなかった第一難関を突破することができたのです。
1972年の12月末にはじめて羽田から飛行機に乗りました。はじめてのフライトの上に、嵐になり飛行機が大幅に揺れて吐きながらの空の旅でしたが、希望が叶えられる嬉しさで一杯でした。ソウルの金浦空港につき、車先生のお宅に直行しました。背の高いがっちりとしたご主人さまの教育者(北朝鮮との境にある学校の校長先生である奇炫錻先生(キー.ヒョンビン 기현빈)と2人のお嬢さんと2人の息子さんが極寒なのに、門の外に出て迎えてくださいました。私をまるで家族のように歓迎してくれたのです。そして、奇先生と車さんが子どもたちに「これからは恵お姉さんがこの家の長女になるのだからね」と言ってくださって、それ以降はおふたりのことをお父さん(アボジ아버지)お母さん(オモニ、어머니)と呼ぶようになりました。韓国が私にとって第二の祖国、この家族が私のかけがえのない韓国の家族となったのです。
男性が女性の年上を呼ぶときが누나(ヌナ)
男性が男性の年上を呼ぶときは형(ヒョン)
女性が男性の年上を呼ぶときは오빠(オッパ)
まもなくして、一つの事件が起きました。1993年の1月1日のお正月に、あるご家庭にお昼の招待を受けてご馳走になった帰り、タクシーで南山を下りかけた時に事故がおきたのです。その日はあいにく大雪でした。タイヤが滑ってあっというまに崖に向かってスリップし始めたのです!「ああ!死ぬんだ!もう医者になれない!」と瞬間的に思ったとたん、ガッツン!!
そこに幸いにして大きな石があったために崖からは落ちませんでしたが、衝撃でした。運転手の横に座っていた私は料金メーターに顔をぶつけて数分でしたでしょうか?気を失なったようです。「メミちゃん!大丈夫!」車さんの声が遠くから聞こえてきました。東京から車さんのお友達で藤野さんという方も後席に乗っていました。あとで外にでて見たらまさに崖縁でした。それを見て3人は手をとりながら大声で笑ったのでした。
みなさん、怖いときにも笑えるのですねー。
私は少し前歯がかけたぐらいでしたが、後に車さんが胸痛を訴え、クリニックでレントゲンをとると肋骨骨折がみつかったのでした。本来ならば警察沙汰になるのですが、事故はうやむやになってそのままでした。車さんがその運転手に貧乏だろうからと言ってお金をあげていました。「え!事故を起こしたのはこの運転手なのに、お金をあげるなんて!」と私は心の中でつぶやいたのです。
しかし、まずは、たいしたことがなく過ぎて、守ってくださった神様に感謝の祈りを捧げたのでした。
こうして、私の韓国での留学生活が始まったのです。
(つづく。)
後奏:
祈り:
また、国連と各国の指導者を、戦争の終結と平和のためにお用いください。