令和3年8月22日礼拝メッセージ「試練の奥義」

説教:試練の奥義

ヤコブの手紙1章2節―4節
「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。
あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。」       

 

私達が生きている限り、試練に合わないという人はおそらくいないはずです。そして、多くの方々がその試練の意味を考えたり、いろいろな対応によって生きてこられたことと思います。今日は聖書では試練をどのように捉えているかについて、すべてを語ることはできませんが、ヤコブの手紙から学んでみたいと思います。

 

まず、本題に入る前に、ヤコブの手紙について大雑把に解説します。

この著者であるヤコブはイエス・キリストの弟です。母、マリヤから生れた異父兄弟です。

ヤコブはイエス様の12人の弟子の一人ではありませんでしたが、パウロやバルナバのようにキリストの復活のあとに使徒になったと言われています。

ペテロがエルサレムに新しい教会を建てた頃にヤコブはその教会の初めての指導者として約20年間素晴らしい働きをしました。

この教会に集まってきた人々は、ユダヤ人でありながら、新たにキリスト信者になった人々でしたので多くの迫害にあっていました。また、飢餓に陥るほどの貧困の中で多くの試練を抱えていました。

 

ヤコブは人々の間でとても信頼されていたと伝えられています。

彼は、神学的な教理を教えようとしたのではなく、身の回りの生活の中で、信仰を持ってどう生きるべきかを読者に語りかけています。

 

それでは一つ一つの御言葉を見てみましょう。

2節に「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」とあります。

 

「喜ばしいことなんて!」とびっくりしますね。これは人間の自然な感情とは真逆のことで、比喩や逆説だろうと考えてみても、納得がいかないと思いますが、みなさんはどのように思われますか?

 

ヤコブは耳を傾ける人々を真理に導くための手段として、試練というものを文字通り喜べと言っているのではなさそうですが、どうして試練が喜びに変わるのかがやはりわからないところです。

 

3節に「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。」と言っています。

 

「なるほど『忍耐』ときましたか。それはそうですよね。試練がきたら、嫌が応でもまず私達はそれに耐えないとどうしようもないでしょう。でも、忍耐することで試練がどのように解決するのでしょうか?ましてや、どう忍耐と喜びがつながるのでしょう!」と反論されるかもしれません。確かに納得がいかないですよね。

 

さらに、4節に進みましょう。
「だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。」と書いています。

 

彼は、忍耐をすることによって、人は成長し成熟していくのだと捉えていて、それが結果として喜びに変わる土台になっていると言っているのではないでしょうか? 

そして、それは単に自分だけの忍耐で成熟するというのではなく、信仰が忍耐を可能にする、つまり試練にあってあきらめでも我慢でもなく神への信頼(信仰)を一層強くし神と共に乗り越えていくことで強く成長する、つまり忍耐が可能となっていくのだと説いているのではないでしょうか?

 

彼は、この手紙全体で「御言葉を聞くだけの者になってはならない、行う者になりなさい。(22節)」といっている実践派でした。そして、ヤコブ書全体の中で、彼は具体的な指導をしているのが目立ちます。

たとえば、「知恵がない人は神様に求めなさい。」「疑わないで求めなさい。」「困っている子供や寡婦を敬って助けなさい」と言っています。また「世の悪に染まってはならない」とも言っています。常に「主キリストと共にあり」の信頼と主の望まれる生き方をする、その信仰の歩みについて述べています。

 

ヤコブは、現実をよく知っている指導者でした。毎日緊迫した迫害にあっていたでしょうし、貧困にあえぐ人々のお世話をしていたことでしょう。その彼がただ、黙って試練を甘受しながら、なにか悟りをひらいたかのごとく我慢していたとは思えません。「人生って耐えることですよ」と他人事のように言っている人ではなかったはずです。ヤコブはこの手紙を書いた後に、石打ちの刑で殉教の死を遂げています。しかし、それで彼の人生が虚しく終わったのではないのです!

 

私達は、試練にあっている方に対しときどき傍観者になる時があります。

他の人の困難に接しても、同情はしても何か自分でできることはないだろうかと試みようとはしないで場合があるかもしれません。しかしそれは意地悪でそうするのではなく、まず自分や家族を守ろうとするために、他人に助けの手を差し伸べる勇気がでないこともあるからだと思います。

また、その人を取り巻く事情を深く考えないで、単にマニュアルだけで解決策を伝えたりすることもありますが、そのことが時として、困っている人の心をさらに傷つける事になる可能性もあります。特に組織の中ではよくあることかもしれません。

「それは自己責任でしょう」と言って無関心になることも最近増えてきましたね。

 

少子高齢化が進み、年老いた夫婦や独居の人々にとって、近所付き合いが少し疎遠になったり、交わりが希薄になっている時代に私達は生きています。

人々がもっと関心を持って、思いやりを持って知恵を出し、手を差し伸べ合えば、試練が小さくなって、超えられるようになるかもしれません。本題から少し脱線したかもしれませんが、普段よく考えることなのでお話を致しました。

 

最後に、私が最近あった一つのお話をしたいと思います。これは、試練というほどのものではなく、ささいな出来事でした。

それは、私の家の庭に何度となく犬の糞をされる問題に悩まされていたのです。

私の家には門や垣根がなく、オープンになっていて、過去には子供たちがかくれんぼなどして騒いでいたこともありましたが、それは注意をして理解してもらい全く問題にはなりませんでした。

この点に関しては、垣根や塀を作らないからだとご批判を受けるかもしれませんが、周囲に開かれたオープンな家を作りたいというのが私の希望でしたので。

 

 

対策として、立て札や犬、猫が嫌う音を出す防御道具などを買って、庭に置いたのですが、そうするとまるで挑戦するかのように、その行為は、くりかえし続いたのでした。

 

結果として、安価で効果的な防犯カメラを設置したらどうかというご助言をいただき、さっそく取り寄せて設置したところ、その行為はついに今のところなくなりました。この一連の出来事をとうして、どんなに感謝に溢れたかわかりません!皆様から多くの慰めや共感、さらに貴重な知恵をいただき私はとても慰められました。心にとめてくださり、励ましてくださった皆様には改めて感謝申し上げます。

 

このようにほんの小さな出来事ですが、自分の知恵や手段だけでは解決できないこと、そしてどうしても我慢できないことは常にあるのですね。たとえ問題が小さくても、大きくても、私は神様に真っ先に助けを請い、祈ることにしています。

直接神様のお計らいで解決へ導かれることもありますけれども、そうでない時も、必ず神様は助け手を送ってくださることを今までに幾度も経験をしています。

 

この度の経験を通して、どうして試練が喜びになるのかということが私にもわかるような気がしているのです。

それは、じっと一人で静かに我慢するのではなく、

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。」

<コリント人への手紙第一 10章13節>

という御言葉のお約束を信じて、すべてのことを計って最善にしてくださる神様を信頼して、お互いに助け合い、共に乗り越えていく。そのような試練が喜びに変わる経験をたくさんしていきたいと思う次第です。

 

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