メッセージ:「パラドックスの真理」 2021年6月27日

メッセージ:「パラドックスの真理」             2021627

聖書:マタイによる福音書5:1-12
「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。

そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。

義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。

心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。

喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

聖書にはすぐには理解し難いパラドックスがあり、それが真理に導く方法として取り入れられています。パラドックスという言葉は英語で「paradox」で、この言葉はギリシャ語で「paradoxa(パラドキサ)para(反、超)doxa(意見、通念)」に由来する言葉です。日本語では「背理」「逆理」「逆説」と訳されることが多いです。今日、ご一緒に学ぶ聖書の箇所はその典型ではないかと思います。

 

さて、先日、FEBC(キリスト教ラジオ放送局)から送られてきた新聞に「クリスチャンになるって大変やで」という見出しが眼に入ってきました。牧師、ゴスペルシンガー、FEBCパーソナリティーの三人での対談なのです。要するに「クリスチャンになるには、また、洗礼を受けるのには覚悟がいるんだよ。わかっているの?ましてや牧師になりたいという方に「おすすめしませんよ。大変ですよ。」と言ったという話もでてきます。正直、私は「困った!」と感じました。そんなことを言ったら誰もクリスチャンになろうとはしないし、今どき、牧師になろうと言う人は、ごくごくまれで、日本では無牧の教会が300以上もあるのにわざわざ勇気をくじくこともなかろうに、そりゃ困難なこともあるのは事実かもしれないけど、それはどの人生だってあることなのだから」と。しかし、彼らはエレミヤという預言者の話をしながら、いかに神様に従う預言者であっても、最後は殉教した事を例にあげていました。まあ、この方たちの最後のまとめについてはまた、あとでご紹介することにして、聖書に戻りたいと思います。

 

パラドックスの例として、マタイ5:3に「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」というイエス様のお言葉を考えてみましょう。

 

普通は「心の豊かな人々は幸いである」と考えますよね。それなのに、イエス様は全く逆のことを言われました。なぜ貧しいことが幸いなのでしょうか。

ここでの貧しさとは、貧困とか貧弱とかいう意味ではなく「虚しい、空っぽ」という意味です。どうやら、ここがポイントになりそうです。

すなわち、心が貧しいとは、自分の弱さ、足りなさを謙虚に認めることを意味します。「天国はそういう人々のものなのですよ」とイエス様は語られました。

もう一度繰り返しますが「自分の弱さを痛感した心」「自分に絶望した状態」なんですね。「ふざけないでよ。一体何をいいたいの!?」と思うでしょうが、キリストは、そういう状態になった人こそ「最高に幸せなのですよ!」と私達に語り続けておられるのです。

自分にまたはその状況に絶望している人は神様にすがるしか方法がないと考えて、神様だけに寄りすがるのではないでしょうか?「そうすれば、神様の力をいただくことができるのですよ」「天国にはいるというのはそういう人々が対象になるんですね。」とイエス様は仰っているのではないかと私は思っています。

私にはこのことが実感としてわかる出来事がありました。HPの証を見てくださるとよく状況がわかると思いますが、かいつまんで申し上げたいと思います。

参考 http://mustardseedchapel.com/musterseed/akashi/akashi/

 

恵牧師の証
私は60歳の還暦を数日すぎたときに、突然息が苦しくなって、行き先の病院で気を失ってしまいました。心不全をおこしたのです。そこで5日間意識がもどらなかったのですが、ヘリコプターで大きな循環器専門病院に運ばれました。原因のわからない難病であることがわかり、医療スタッフが懸命になって5ヶ月の間、色々な検査と対症療法をしてくださいましたが、あと3ヶ月の命と宣告されたのでした。そこで自宅で死にたいと思い退院を希望して帰ってきたのです。いつ、どのように死ぬのかと恐れながら、3リットルの酸素をしながらの生活でした。その後、2年間寝たきりの状態だったのですが、神様はこれらの試練を乗り越えさせてくださって今の私がいます。この8月で10年目を生かされているわけです。どんなにこの感謝を表現したらよいのかと言葉を探せなくて、もどかしく思います。しかし、正直にお話しますが、宣告された時は、あまりのショックと恐怖、そして何よりも一番つらかったのは、神様の存在が遠くに思えたことでした。

そうです!私は絶望したのでした!こんなことを言うと「医療伝道をして、牧師にもなったクリステャンがそんなことでどうする!あなたの信仰はどこにいってしまったの!?」とお叱りを受けるかもしれませんけれど、そのとおり、事実なのです。

しかし、絶望したからこそ、私は神様だけにすがったのでした。現代医学からも見捨てられた私は一直線に神様の胸に飛びこむしかありませんでした。死と命の境界線に立たされると、もう選択の余地がなくなるわけです。

しかし、みなさん!人のピンチは神様のチャンスとなります!(ありきたりの文句で恐縮ですが)実は、それが良かったのです!

逆に、まだ「心が貧しく」なっていなければ「まだまだ自分は大丈夫!きっと他の道や方法があるさ」と思って、神様の力を頼みにすることはしなかったかもしれませんし、自暴自棄におちいっていたかもしれないですね。

 

もう一度、新聞記事に戻りましょう。彼らの結論を申しあげますと、これはまさにパラドックスだったと私は感じています。たしかに、クリスチャンになることや、牧師になることは、救われるという喜びは非常におおきいのですが、そのことからかえって困難な状況に陥ることもあるでしょう。しかし、そういうことで終わるのではなく、ここで大事なのは「神様とのやり取り」をしながら「向き合うことなんだ」「正直になることなんだ」と強調をされていたのでした。神様と親しく会話ができて、しかも自分を飾ったりしなくてもいいのですね。一番本音を言えることができる、正直になれる場所は、神様と「差しの対話」以外ないと思っています。クリスチャンは真面目な人が多いので「恐れ多くも、わたしなどが、神様との祈りや対話の中で、そんな事言うなんて、とても、恥ずかしくてできません!」といって遠慮されている方々がおられるのではないかと想像していますが、あなたはいかがでしょうか?

 

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