令和4年7月24日 礼拝メッセージ:証集:海外での主のめぐみ―ブラジル(4):「あなたは天に帰った!」

前奏:

 

聖書:

ヤコブの手紙 5章:13-16節
「あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。 あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。 だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。」

 

ある時、リベルダージの牧師さんに私達は、「40歳になる男性が胃がんでとても苦しんでいるので訪問をして欲しい」と頼まれて出かけました。90歳に近いお祖母様とお母様にまずお会いしました。お父様を早くに亡くして以来、今までご家族を守り養い続けてくださったことに対して息子さんに大変感謝をされていました。それと同時に婚約者もいたのにそれを解消して自分達の面倒を見てくれた息子であることをすまなく思うとお母様は嘆いておられました。これから少し楽になるだろうという時に胃がんが発見されたということでした。彼は幼い頃からクリスチャンホームに育ち、信仰も素直に受け入れて熱心に教会生活をされていたそうですが、いつしか次第に教会から離れていったそうです。所属していた牧師さんからも今の内に彼が信仰に戻るようにとのお話があったということでした。

 

そのあと、ベッドに横たわっておられるご本人にお会いしました。彼はとても人懐っこい表情で私達を迎えてくれました。一番大変なことは何かと聞いてみますと痛みで夜も眠れないとのことでした。私達は痛みの度合いはご本人しかわからないので、次のような表現でお聞きしました。「一番堪えられない痛みを10とします。何も痛みを感じないときは0です。今はどの程度でしょうか?」彼は「8か9です。」と言われました。すでに彼は医師から痛み止めの薬を処方されていましたが、それがあまり効いていないようでしたので、「余り効果がでないお薬を量だけ増やすのは副作用がでるだけで良くないと思いますので、次には麻薬であるモルヒネを使うと良いですね。」とお話をしました。麻薬を使うということで少し驚いたようでしたが、不安に対する説明をすると受け容れてくださいました。翌日、私達がサンパウロ大学付属病院を訪ね、お願いしてモルヒネと副作用のための吐き気止めの薬を処方していただいたので届けました。それからは随分と楽になったとのことでひとまず安心をしていたのです。(当時、ブラジルの医療はアバウト(大雑把)でした。薬局で抗生物質も医師の処方箋なしで買うことができましたので、私達は子供の薬も自分たちで処方して現地のクリニックに行かなくても済んで助かりました。)

 

ところが、ある日、お母様からお電話で「先生、息子がもうモルヒネは飲まないと言うのです。」「一体どうしたのですか?痛みが消えたはずですのに」というと「夜に一度だけですが尿失禁があって、それからこれはモルヒネのせいだから絶対に飲まないと言うのです。息子はすごく頑固なところがあってどうしたら良いでしょうか?痛みならがまんすると言うのです。」すぐに、彼を説得するのは得策ではないと思い、しばらく様子を見ることにしました。

 

数日して、またお母様からお電話で入院したことを告げられました。幸いに私の家から歩いても近い病院でした。その日は土曜日で、ある牧師先生の子供のお誕生日会に家族で招待されていましたので夫に子供を連れて行ってほしいと頼んですぐにその病院に駆けつけました。行きながらきっと彼にモルヒネを勧めたことを恨まれているなと思いつつ心が重かったのでしたが、病室に入ると彼はとても優しい笑顔で私を迎えてくれたのです。声はでなかったのですが首を縦にふりながらご挨拶をしてくれてすぐにウトウトされて目をつぶられたのです。

 

お祖母様とお母様が悲痛な表情で座っておられました。「恵先生、どうしましょう。牧師先生が家に来られて、息子が亡くなる前に洗礼を受けさせたいからなんとか信仰の告白をと言われたのですが、今の状態では息子には言えませんでした。この子は洗礼を受けないと天国には入れてもらえないのでしょうか?」と涙を流されるのです。私は「そんなことは決してありません。今、聖書を持ってきます。待っていてくださいね。」と言って、私は家に走り戻り、ヤコブの手紙に確かにあの御言葉があったはずだと探したのです。そして、このみ言葉が目に強烈に入ってきたのです。「あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。」

 

私は「これだ!」と思い、途中、薬局に入って小さな瓶に入っていたオリブ油を買って病室に戻りました。息子さんは気持ちよさそうにいいいびきをしながら眠っておられました。

そして、お母さまにヤコブの手紙 5:13-16を声をだして読んでいただきました。また、同じく、マタイによる福音書18章20節には「二人または三人がその名によって集まるところには、私もその中にいる。」と私が読みました。そして、「お二人はこの2つのみ言葉を信じますか?」と問いかけをしたところ、お二人は揃って私の手を取って「信じます!」とはっきりと言われたので、オリブ油を彼の額にそっと塗りました。そして共に祈ったのです。「神様、今、この聖書の御言葉を私達三人が固く信じました。御言葉を感謝致します。神様の哀れみを持って彼を天国に入らせてくださることを信じます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン!」

「明日は日曜日ですので礼拝でこのお話をしてみんなで祈りますね。」と約束をして帰宅しました。

 

翌朝、リベルダージの教会において礼拝のメッセージが終わり証と祈りの時間がありましたのでその時にお祈りをお願いしました。みなさんが一斉に声を出して祈ってくださいました。彼らの教会は私達と同じ群れでしたのでこのご家族のことはご存知のかたが多くおられました。

 

息子さんはその日曜日の午後に意識が回復されないまま天国に召されていきました。

 

彼らの教会でのお葬式に参加しました。その時の牧師先生のメッセージの中で「伝道ができなかったことが申し訳なく思います。是非とも洗礼を受けさせてあげたかったのですが。」とありました。わたしはそれを聞いてとても悲しくなりました。ご家族が今、どんなに辛い思いになっておられるかと思うと、いてもたってもおれず儀式が終わらない前につかつかと前に立ちました。ご家族に一礼をして、「皆様!私のお話を聞いてください。この方は間違いなく天国に召されて今、イエスさまと共におられます。」と前置きして聖書を開きその時に祈ったことを手短にお話をしました。集まった牧師先生や信徒達にどう思われようと私には問題ではありませんでした。

 

当時の私の信仰のあり方は今の確信と比べるとまだまだ弱く浅いものであったことを告白せざるを得ませんが、少なくとも、彼は幼いときには信じて熱心に教会に通っておられたこと、そして神様の救いというのは洗礼を受けたか受けなかったかで選別されるのではないと言うことだけは確信をしていました。

 

葬儀から1ヶ月ほどたった頃、夜にお母様が泣いて私にお電話をくださいました。「恵先生、またあの牧師先生が洗礼を受けていなかった事が悔やまれると私に言ったのです。本当に悲しいです。」と嗚咽していました。何故この牧師はご家族に執拗なまでに教理を押し付けて失望をさせるようなことを繰り返すのか理解できませんでした。

 

「お母様、しっかりなさってくださいね。誰が何と言おうと私達はあの聖書の御言葉どおりにしました。なるほど、ご本人は点滴の中にお薬が入っていてずっと意識が薄れていました。でも、私達にはわからないことが一杯あります。教理は大事ですが人間が作った限界があるものだと私は考えています。そんなことより、私達は神様を信頼しましょう。神様はご自分のたった一人の息子を残虐な十字架で死ぬのをじっと見つめておられました。あの贖いの死以外には私達は救われなかったからですね。私達人類の救いのためにイエス様は死なれたのです。息子さんのためにも、そして私達のためにも血を流してくださいました。すでに人類の罪を背負って復活されて勝利をされたのです。私達は確実に息子さんが救われて天国にいらっしゃるのだと今一度固く信じましょう。」と話をしました。

 

こういうことがあってから私は真剣にキリストが来られたのは誰のためだったかを考えるようになりました。救いとは、自分が神の救いを信じ、洗礼を受けるという人間側の意志の信仰によってのみ救われるのか、それともイエス・キリストの信仰と私達になさってくださった愛故に救われているのかということです。

とはい言うものの、かつて私がイメージしていた伝道とは、この牧師先生と50 歩100歩だったと思います。福音を伝え、洗礼を決心するように奨励し、クリスチャンが増えることによって、この地上の天国を目ざすということが私の目標とした宣教のモチベーションだったからです。クリスチャンだけが天国にいくのだと子供の頃からそう信じていたので伝道しないと人類が滅びるという切迫した気持ちでした。

 

聖書のローマ書10:9-10にこのような言葉があります。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」

しかし、私はこのような御言葉もあることで慰めとお励ましを頂いています。

<テモテへの手紙 第一1:15>

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

 

ここで、罪人とはだれでしょうか?全人類です。

神様の救いのみ業は、あのイエス様の「十字架」で完成されたのです。これが私のたどり着いた信仰の原点です。だから、「全ての人が神様の救いに入ることができる」と固く信じています。「じゃ、何を信じても、信じなくても、どんな戦争を起こした人も救われるならどうでもいじゃないですか!と反論があるでしょう。

直接的なお答えにはならないとは思うのですが、この様に考えています。

 

天国はどこにあるのでしょうか?死後だけですか?それとも、死後を含めたイエス様の再臨まで待たないといけないのでしょうか?

 

もちろん私もこの肉体が滅びて霊にかえられて天国にはいると信じています。でも、天国とはイエス様とともにあるという幸せを実感できるところだと私は思っています。この地上にどんな理想郷を作ったとしてもそこにイエス・キリストがいないならそこは天国ではありません。死後から戻った方は一人もいません。死んだと思われた人が生き返って天国はこういうところでしたという話は少なくありませんがそれを事実だと証明することはできません。死後のことは神様にお任せして私は平安を得ています。

 

わたしにとっていちばん大事なことは、今、生きているこの一日が天国か地獄なのかということです。地獄というのはまさにこの現実のすべての不条理、痛み、病、罪だらけの世界です。しかし、どんなにサタンに支配されたかのように見えるこの世界もキリストの支配、聖霊のお導きがあると確信することができるなら、私達はその真っ只中においても天国を味わうことができると信じます。キリストの素晴らしさを体験している私達がそれを知らない方々に伝えるということが福音を伝える喜びであり、また使命であって、クリスチャン、ノンクリスチャン、他宗教の人々や無神論者ということで区別してかれらを無理矢理に改宗させることが果たして、伝道であり神様のお心であるとは私にはとうてい思えないのです。

 

私がもうひとつ、このことに目覚めたきっかけになったのはマザーテレサの生き方でした。

死に行く人に、「キリストを信じて天国にいきなさい」というかわりに、その人の中にキリストを見出して、あなたの宗教は何かと尋ねて安心をさせるその姿は一体どういう確信をもっているのかと思ったのです。決してすぐにそれが実感としては捉えることはできませんでした。今も、少しずつ「キリストの救済」についての思いが広がっていっています。人々の関係の間で教理を強要するような気持ちにはならなくなってきました。でも、だからといってキリストご自身をお伝えすることに対しての情熱が以前より低下しているとは思っていません。

 

牧師も、宣教師も教会の人数、洗礼者が何人かと気にし始めたらそれは堕落の一歩だと私は思っています。この世的な成果だけでご自分の日々の歩みを判断するのではなく、統計を見て日本は1%にも満たないと悲観する前に、目の前にいるこの人にキリストの愛を私が実践できているのかということをもっともっと反省することが大事であると思っています。

 

イエスさまは5000人以上の必要をパンで満たしてくださいましたし、一方、一人の罪ある婦人に手を差し伸べ「私もあなたを裁かない」と言われました。主の恩恵は深く、広く、高くて私達にはその全てを認識することはできないのです。

J.B.フィリップス著「あなたの神は小さ過ぎる」の言葉を私への教訓としたいと思います。

 

後奏:

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