聖書:
今日の聖日礼拝のメーゼージを今、早朝に書いています。どうしてもこのコンサートの最終段階でしたので1週間メッセージの準備ができなかったからです。
少し疲労感が残っていますが、私の思いは神様への感謝と祈りを合わせてくださった方々、また、思いをウクライナへの義援金で表してくださったお一人一人の顔を思い出しながら感謝で一杯なのです。どれだけこの感謝の気持を文章に書き残せるだろうかと思いながら書き進めて参ります。
予期もしなかったコロナのパンデミック感染の影響を受けて私達の生活は一変しました。
そして、悪夢のようなロシアのウクライナへの戦争が勃発して世界は分裂し、怒りと悲しみに満ち満ちている現実に私達は今生きています。
皆様の日常生活においてもさまざまな困難、悲しみを背負ってこの1週間を過ごされた方々も少なくないと思います。先週、私も祈祷課題にださせていただきましたが、主にある交わりがありました三智子さんの葬儀が執り行われたばかりで、彼女とのラインを読み返しながら天国に凱旋されたと固く信じてはいても、やはり現実として交われないもどかしさと寂しさを引きずったままの状態でした。
では、聖書の内容を見ていきましょう。
この言葉を聞いているのは、捕囚(バビロン捕囚)にされているイスラエルの民です。彼らの親や祖父は、主の告げられる言葉に耳を傾けず歩み続けたため、ついに審かれて捕囚の民とされました。その子孫である彼らもまた、その変わらない現実の中で無気力に過ごしていたのです。ところがこの4節は、慰めに満ちた神様の救いの言葉として語られています。
「わたしにとって、あなたは高価で尊いからだ」という言葉に注目したいのですが、「わたし」とは神様であり、「あなた」というのは当時のイスラエルの民ですが、今日としての対象は「皆さん」であり、この「わたし」のことです。
これを聞いてみなさんはどのように感じられますか?
「私が神様にとって尊い存在なの?」という疑問が起こらないでしょうか?
ある牧師夫人が証の中で次のように書いておられます。
「この言葉は知ってはいましたが、私自身が「高価で尊いはずがない。」と受け入れていなかったので、全く響いてきませんでした。両親の愛も、神様の愛も、私が信じようとせず、受け入れていなかったのだと思います。「愛している。」と言われても、それを受け入れなければ、嬉しくもなんともないのです。幼児の頃から、私は全く子供らしくありませんでした。いつも心が暗かったことを覚えています。正しく自分という人間を理解し、自己受容ができるようになると、他人と比較することを徐々にしなくなり、勝ち負けに生きることがなくなりました。なので、心は穏やかです。今でも時々、人と比較しそうになる時はあるのですが、そんなときは「私は私以上でもなく、私以下でもない。」「唯一のユニークな存在。」「オンリーワンの存在。」と思い出すようにしています。」
要するに、どんなに私がふさわしくない考えや行動をとったとしても、神様は変わらないで、「私を愛してくださるのだ、そして、私は尊い存在なのだ」と言われるということですから、ストレートには信じられないと思いますよね?だって証をしておられる牧師夫人でさえも「クリスチャンだからすんなり受け入れられる」と言うわけでもなさそうです。
一方、「神様は寛大なお方だから可能なのでしょう!」とあっさりと解釈する方もおられるかもしれませんが、神様は愛であるけれども同時に正義の神様であるので矛盾しませんか?
現に、旧約聖書をみればノアの方舟ではノアの家族以外の民は、神様から洪水で滅ぼされ死に絶えましたし、エジプトからの脱出に成功はしたものの、荒野の40年間で[金の牛の像]を作った民は神様の怒りでやはり、滅ぼされてしまったという記事を見るとそんなに甘い神様ではないことがわかります。つまり、一言で言えば「罪の結果は死」であるということです。
しかし、神様が「にもかかわらず」の愛を貫いてくださった根拠があったのです。「あなたを生かすために他の者が犠牲になった。 あなたのいのちを買い戻すため、 他の者のいのちと交換した。」すなわち「犠牲の贖い」という一つの手段が計画されていたからだということがすでに予言されていたのです。旧約の時代はシンボルとして、子羊が犠牲として焼かれました。
でも、新約の時代には、「犠牲の贖い」とはまさにイエス・キリストを指し示しているのです。主は十字架にかかられて私達の罪の贖いのために死んでくださり、そして復活してくださったということです。
マザーテレサの書籍の中に「世界で一番たいせつなあなたへ マザー・テレサからの贈り物」という本があります。ある病気で入院しておられる方にこの本と壁掛けの聖句「あなたは私の目には高価で尊い」を送ったことがありました。何故この言葉をその人に送りたかったのかと申しますと、将来その方は後遺症で自由に身体が動けなくなるかもしれないという危険性があったからでした。使命感を持ってずっと活躍されてこられた方でしたから、それだけにそのショックは大きいのではと心配して少しでも力づけて差しあげたかったのです。」私自身はまだその本を手にしてはいないのですが、その本の中にはこういう事も書いているのです。
人の評価というのはどこにあるのでしょうか?
「できる、できないという優越の差」「多数決の世界」「美しい、かっこよさの競い合い」「金メダル至上主義」等々、人の評価で私の生きる価値を測られる現実です。私達は世間の目を意識することで、その場その場で対処して行く必要に迫られます。「自分らしく」ありたいと思っていても、流されるときだってあります。最初抱いていた信念を貫くことができることもありますが、時には自分ではそうしたくないと思っても、勝利をするためには妥協を迫られるときもあります。
往々にして、結果として目に見える形の良いとか悪いとかで判断しがちなのですが、それよりも動機がなんであったのかということのほうが、はるかに結果より大事なことではないかと私は思うのです。
この「にもかかわらずの愛」を信じて、慰めを受け、さらに希望を持って生きることができるその根拠がこの御言葉の中に秘められていると思います。もう一度こころに刻みたいと思います。
花束贈呈をご辞退してくださった代金として2万円をお三人からの寄付としていただきましたので、コンサートでの義援金は31,550円でした。
また、驚いたことには接触もしたことがない、参議院自由民主党幹事長、世耕弘成氏からの励ましの祝電が届いてました。
私達が今までこの地域で行ったイベントや講演会の参加者の数では「ブービー賞」という結果になりましたが、私たちは大満足でございます。以前串本文化センターでサックス演奏ーバングラディッシュの看護学校建築のための募金をした時は150名ほど来てくださり、20万円を寄付していただきました。
明日、月曜日には高校と小学校(職員対象)の募金を合わせ最終的な集計を致しますが、現在私がお預かりしているのは、総額:371,476円です。また、最終合計額のお知らせを次週ご報告させていただきます。
コンサートに費やした私達の願いと投資は決して小さいものではありませんでしたが、その結果としては、3地域の教育委員会の賛同を得たにも関わらず、音楽に関心が高いはずの学校の生徒が一人も来てくれなかったのはなぜかという課題は残されました。この串本町はじめ東牟婁郡の防災にたいする関心度を垣間見ることができましたが、決して落胆するには及びません。これからなのです!
Bloom worksというメインゲストと太地町からの賛助出演をしてくださった野澤大輔氏がいかに素晴らしいスピリットを持った方であるかをどの様に表現したら良いのかわかりませんが、彼らとの出会いはまさしく同志であったという最高の宝を頂いたと感謝しています。大きな勇気をいただきました。お祈りくださり、義援金をおくってくださいました皆様にこころより御礼申し上げます。有難うございました。