聖書:
1主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
2主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
3主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
4たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
5あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。
わたしの杯はあふれます。
6わたしの生きているかぎりは、必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
前奏:
私達はいつ、どのように死を迎えることになるのでしょうか?
このような問いかけをすると「縁起でもないことを言わないでください。考えたくもありません!」と仰る方がいます。
また「いくら考えたって、この先どうなるかわからないんだから、今をハッピーに生きられれば私はそれで満足ですよ。」という方もいらっしゃいます。
「そういう時になったら考えますよ。何も今から考えなくても……。」という方もおられるかもしれませんね。
自分にも死がいつかやってくることは意識はしてはいるものの、誰一人として「死」を体験することが出来ないのですから、死を単に観念的に捉えざるを得ないので、突き詰めて考えにくいという面もあるのかもしれません。
しかし、私達は高齢化社会が進む一方で、周囲の同じ年代の人々が次々に亡くなっていくという現実に遭遇します。また、予想だにしなかったコロナのパンデミック、地震などの自然災害、またウクライナにおける戦争の勃発という脅威にさらされている状況を知っていて、完全に死というものを無視することもできないのではないでしょうか?
確かに誰にとっても死というのは考えたくないテーマですが、人間はどのような経過をたどるとしても死ぬことを避けることはできないということだけは、議論の余地がない明らかな事実です。
先人たち、特に宗教者や哲学者、芸術家たちは、人間の「生と死」について深く思索を重ねてきました。
たとえば、ギリシャ人は、霊魂の二元論という考えで、体は死を迎えても、魂は不滅であり、死によって霊魂は肉体を離れて天の世界にいくのだと考え、死の恐怖から逃れようとしました。
一方、ヘレニズムの神秘宗教は、人間は死後完全に神と合一すると考えました。
また東洋思想の中には、来世を思うことによって、死の恐れを克服することを説く人々もいたのです。難しい哲学的な話はこのくらいにしておきましょう。
ところで、いろいろな国で「終末期を迎える」取り組みが必要だと考えられているのには理由があります。
それは、人生最期の段階で、本人の希望に添ったケアを受けたいと思っていても、意思が伝えられない状況になることが多いからです。例えば、今後生きる可能性がない状況の中で、意識がなくなったときには、心肺蘇生を受けて機械につながれるだけの意味のない延命はしないで欲しいと私は遺書に書いています。そして、家族や親しい人にも伝えています。
死後に必要になるお墓、遺言書、相続のことは比較的多くの人が準備しようとなさいます。これらはとても大切なことで、私自身も難病を抱えていますので、遺言書を作成して、公証人を立てて保管しています。しかし、もっと大切なのは、死に向かっていながらも、今を生きているという認識で、どのように今日をそして明日を生きるのかと言うことではないでしょうか?なぜなら、死を考えるということは、裏返せば「私はどう生きるのか」ということに自らを置くことになるからです。
イエス様がこのように祈りなさいと教えてくださった「主の祈り」というのがあります。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン
この祈りの中には「み国を来たらせたまえ。」、「み心の天になるごとく地にもなさせたまえ。」という箇所があります。
歴史を支配し、一切のことを主のご計画どおりに成就してくださることが約束されているという確信と希望をここに見ることができます。
幼子のようにキリストに全信頼をおくことが、私達にとって一番安全であり、喜びと幸せに続く道だと確信をして、感謝しながら今日の一日を過ごしてまいりましょう!
後奏: