令和4年3月6日 ヨハネによる福音書 講解 第24回 「弟子への最後の祈り」

聖書:

 

前奏:

 

17章は古代教会の時代以来「イエスの大祭司としての祈り」と呼ばれてきました。旧約聖書における祭司の主な仕事が、犠牲を捧げることと、それに先立って祈ることだったことに起因しています。

 

イエスさまの祈りは1節で「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」と始まっています。父なる神様と、御子であるイエスさまの栄光が現わされるその「時」とは、十字架による死を意味します。

 

また、「栄光」とは、通常で言う華々しいという意味ではなく、ここでは十字架をさしているのです。十字架による処刑は、当時もっとも残酷で、人間の尊厳をどん底にまで叩き落とす最悪の刑罰でした。人間の罪の象徴であるかのような、またはイエスさまの敗北として考えられてもおかしくないあの十字架がなぜ栄光だといえるのでしょうか?

 

私たち人類が一人も滅びないようにと、独り子イエスさまを死に渡された創造主である神様の苦渋の決断の結果が十字架であったことは今までにも申し上げたとうりです。

つまり、栄光は、十字架における死=神の義が完結されたという事実です。

そしてそれは、同時に完全なる救いの勝利を意味します。しかもこの十字架こそが神様のわたしたちへの深い愛そのものであるということが秘められているのです。

 

私たちは、自分の行ないではなく、神様の憐れみとイエスさまの十字架の贖罪によって救われました。死とさばきに定められて当然の私たちが、神のものとされたこと、これによってはじめてイエスさまが文字通り神様から栄光をお受けになったのです。

クリスチャンのシンボルとして知られている十字架は、キリストを信じる者にとっては神様からの最大の祝福であるという信仰の原点なのです。

 

11節の「それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。」という一つという意味は、画一ということではありません。

キリストのからだとしての一致であり、愛によって育まれていく結果なのです。

いわゆる音楽でいうならば、オーケストラの「ハーモニー」ということによる喜びが形成されていくという一致を想像していただくと良ろしいかと思います。

 

25-26節で、「正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」

ここで「彼ら」と表現する人称代名詞は、直接的には、イエスさまを信じて歩んできた弟子たち、そして、今日においては、クリスチャンのことです。このイエスさまの祈りは、福音を携える使命を持つ者にとって新たなる激励の祈りであると言えます。

 

3年半の間、弟子たちと共に生活をしながら、神の国、永遠の命とは何かを弟子たちに身を持って教えてこられて、世界にその福音を伝えるという使命を与え、訓練をされてきたのです。そして、いよいよ救いの完成のために弟子たちとは今生の別れとなる時がやってきて、今後彼らを守る聖霊の存在を伝えたのでした。

天の創造主なる神様が1人子のイエスさまを愛してくださったその同じ愛が消えることなく弟子たちに注ぎ込まれ、今後は聖霊となって共にある(臨在)のだと力強く祈られたのでした。

 

もし、愛する人にこの世で最後の言葉をかける時があるとするならば、皆さんはどう語るでしょうか?きっと一言では言い尽くせないと思いますね。

 

前後しますが、3節に「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」とあります。著者ヨハネはこの「永遠の命」ということを彼の伝道において一番伝えたかった内容の一つではなかったかと思います。

 

永遠の命というと哲学的なテーマのように感じるかもしれませんが、イエスさまは実に単純明快にずばり語られています。

すなわち、「全能なる真実の神様の存在を知ることと、その神様がこの世に遣わされたイエスさまを知ること」であると断言されているのです。

 

また、永遠の命というと死後も続く命というイメージが強いですね。しかし、だれもこれを科学的に証明をすることはできません。

永遠という命題をあれこれ考えるよりも「今をいかに生きるか?」が私達にとっては大事なことではないでしょうか?

何を求めて今日を生き抜くのかということをもっと真剣に自分に問わなければならないと思わされます。風の向くまま、時間がすぎるまま過ごしていても永遠の命に自動的につながっていくものなのでしょうか?

ただ、何かをせねば生産的ではないという行動のことに限定してお話をしているのではありません。

 

永遠の命という言葉を毎週説教で聞き慣れている私を含むクリスチャンでさえも、心地よい言葉として聞き流している場合が決して無いとはいい切れません。

永遠の命を約束してくださっているから心配ないとして、日々「キリストを知ること」にあまり意識せず過ごしている時があるかもしれないのですね。言葉の持つ意味を心に、もしくは頭に置き去りにして実際の生活に適応できていない自分自身があるという意味です。

 

この「今日」しか人生が残っていない人々が現実におられます。

私かも知れませんし、あなたかもしれません。

 

今、戦争で命の危機が迫っているウクライナの人々(ウクライナ政府はこのまま戦闘が続けば、難民の数は450万人以上に上ると推計しています。)

、飢餓で死にかけている人々(8億2100万人)もおられます。悩みに押しつぶされそうになって自死さえも考えている人々がおられます。(令和4年1月の統計では1569名。警察庁の調査)

 

そういう命の危機にいるかたがたのことを想像すると、今日私達が生きる意味を静かに黙想する時間を持つことができるというのはなんと幸いであるかと思います。

 

危険の中におられる人々に、今日も神様のお救いとお助けがありますようにと祈りましょう。

 

後奏:

 

お知らせ:
HPとライン、メールを通して皆様にお願いをしてきました「トンガ海底爆発の義援金」を3月2日で締め切らせていただきました。皆様の温かいお言葉、励ましとともに28名の皆様から9万円集まりましたことをご報告させていただきます。

募金活動をされている高知県黒潮町の黒潮町小中PTA連合会会長、黒潮町婦人連合会会長、及び教育長からも皆様に感謝のお言葉を頂いています。重ねてこの紙面をお借りして、心からお礼申し上げます。

「連合会から先の振込確認と遠い地からの支援協力に対して驚きと感謝の連絡がありました。昨日から各団体で集計作業が行われています。取りまとめ次第合計額を公開します。たくさんの方のトンガへの思いが義援金とともに集まっています。なるべく早くトンガに届けたいと思います。皆様、本当にありがとうございます。」

神様の祝福とともに集められた義援金がトンガの皆様に確実に届けられますようにお祈りいたします。

 

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