令和4年7月3日 礼拝メッセージ:証集:海外での主のめぐみ ―ブラジル(1):「南国のパライソ(天国)」」

聖書:

エペソ人への手紙 4章:16節
また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。

 

前奏:

 

三男は、サンパウロで3歳のお誕生日

ブラジルのサンパウロについた私達は早速Dr.Evandoro Oliveraが用意してくださったアパートに入りました。古い建物なのですが、大変大きなリビングでお部屋も3部屋あり、私達には充分すぎるほどのものでした。まず、なによりも感動したのは、同じ職場の脳神経外科医の山下先生(三世)が、すでに子どもたちの紙おむつをはじめ、さしずめ生活に必要なシャンプー、石鹸、トイレットペーパなどがテーブルに置いてくださっていたことでした。山下先生ご夫妻はとても物静かでどちらかと言うと寡黙でしたが折々に私達の家族に深い配慮をしてくださったかたなのです。

 

ベネフィセンシアポルトゥゲーザ病院

その地区は道夫が勤務する「ベネフィセンシアポルトゲーザ」とう巨大な病院がありました。「パライソ」=天国という名前の地区でとても嬉しくなりました。

 

アパートから出て2分ほど行った曲がり角には、カフェがあり、そこにはたくさんの種類のフルーツからその場でジュースを作ってくれ、ブラジルコーヒーとふかふかのパンを毎朝5時からオープンしていました。ブラジル人はとても朝早くから働くのだな〜と感心しました。

 

ブラジルコーヒーはまさに真っ黒の色と味も濃いもので、すでにお砂糖がたっぷり入っていて、「目を覚ますのにはこれに限る!」と後々になって納得しました。通常のカプチーノよりも更に小さめのガラスコップで、それを一気に飲み干すのが粋でした。最初はあまりにも濃いので驚きましたが、2年間の滞在のおかげで、日本に帰国して久しぶりに飲んだ喫茶店のレギュラーコーヒーがまるで「水」のように感じてしまうほどに味気なくて日本の喫茶店でコーヒーはもったいなくて飲まなくなりました。

 

歩いて5分ほどのところに二世の経営するスーパーがあり、しかも買い物をして、自宅まで届けてくれるので大変助かりました。その頃の日本はまだこのシステムを取り入れてはいなかったと思います。片言の日本語が通じるので、まるっきりポルトガル語を知らない私には大変助かりました。

 

ひとつだけ私にはブラジルに移る際に悩みがありました。というのは、「外を歩くときは注意しないといけませんよ。どこからピストルの弾が飛んでくるかもしれないから」とスイスに学会で来られたブラジルの若い脳外科医に脅かされていたからです。冗談のつもりで言われたのかもしれませんが、私は本気にとって夫にも言えず内心ビクビクだったのです。

サンパウロのダウンタウン

 

子どもたちを現地の幼稚園に送り迎えするのに、片道10分ほど歩くのですけれど、周囲をキョロキョロしながら、危険はないかと気を使って歩いていました。また、日本人の間では、危ないので決してバスには乗らないで必ずタクシーにするようにとの話がありました。しかし、こんなに恐怖の中で生活をするなんてナンセンスと思い始めた私は、夫には内緒で子供たちと安全を祈りつつ、バスに乗ることにしました。行く当てもなく終点までいくのです。着いても私達が降りないので運転手さんは不思議そうに私達をみていました。いろいろな路線に毎日乗り換えながら、ロンドンにあるような二階建ての真っ赤なバスが来たので喜んで二階に乗った私はとたんに足がすくんでしまったのです。まさか高位恐怖症が潜在していたとは思いもしなかったのです。

 

1ヶ月試した結果、何も危険なことはなさそうだと思い、「これは噂なんだ」と思って得体のしれない恐怖はなくなっていきました。しかし、その時は、半年後に、ピストルを持った強盗たちが教会の礼拝中に入ってきた事件がおこることなど知るよしもありませんでした。

 

どこの場所に移っても、まずは教会を探すことにしていました。パライソ地区の近くのリベルダージという場所に「リベルダージホーリネス日本人教会」がありましたので、そこの礼拝に参加してみました。建物はとても小さい教会でした。私達のような一世は少なかったのですが二世、三世と日系人が集まっていて私達をとても歓迎してくださいました。礼拝は日本語とポルトガル語の通訳付きで説教される牧師先生のメッセージも力強く、また礼拝の中ではかならず証があって活気のある教会という印象でした。

 

日本では、幼い子供のいる家族は礼拝堂とは別の部屋で礼拝を聞かねばならなかったので、フラストレーションになることもありました。ところが、この教会では、日曜学校の校長先生はじめ若い学生さんたちが乳児から子どもたちを日曜学校で引き受けてくださったのです。子供が産まれて以来、久しぶりに集中して礼拝できることがどれほど恵で感謝なことか、言葉では言い尽くせないほどでした。

 

この教会の牧師、イグナシオ先生は建設業の社長さんでもあり社会的にも活躍されているので牧会は山崎先生という一世の引退されたご高齢の先生ご夫妻が担当されていました。歳はとっていてもこのお二人はとてもパワフルな信仰生活をされていて、毎水曜日にはご自宅を開放され、メッセージと祈祷会がありましたので、できる限り参加をしてたくさんの恵を受けました。それにこの教会では、常連、新人という区別はまるでなく、どんな人の提案をも尊重してくださり、すぐに検討してくださって取り入れてくださるという珍しい自由な教会でもありました。

 

スイスで信仰を燃やされた私達は、さっそくですが 家庭でのCell 祈祷会をはじめましょうと提案をし、すぐに、8箇所で小さな地域別グループに別れた夜の祈祷会がはじまりました。私たちは発案者としていくつかの祈祷会を担当いたしました。また、私は婦人たちの聖歌隊に参加し、毎週の礼拝のときには特別賛美をすることになっていてとても楽しみでした。

 

また一年後には、教会に来たくても参加できないご老人たちや何らかの理由で疎遠になっていた方々への「福音訪問隊」を作りました。丁度教会員の青年が失業したと聞いたので、教会から給料をだしていただき、バンで運転をお願いして婦人たちで訪問することになりました。一方、隔週の日曜日には聖霊派の青年たちが私達のリビングで祈り会と交わりをしたいというので来られてギターでの賛美や証などをしてとても信仰的にも励まされました。

 

また毎月の第一日曜日には持ち寄りのランチがあり、それは最高の喜びのときと交わりでした。70歳以上のご婦人たちが作られる和食は格別に美味しかったのです。いやーブラジルに来て和食が食べられるなんて!このブラジルでは日本の移民たちが苦労して努力されてきた甲斐があり、子供たちも教育を十分に受けることができて社会的にも尊敬をされていることがわかりました。

 

こうして、ブラジルの生活が軌道にのり、夫は日本国内ではとうてい執刀をさせていただけないほどの多くの脳外科の手術を現地の医師のグループの保護の下でさせていただきました。そして、「脳の病気について」の講演と証の会をいろいろな教会主催ではじめました。当時、脳神経外科と精神科の区別がつかないで講演を聞きに来られる方も少なくありませんでしたので、精神科医師とのコラボで講演をしてとても喜ばれました。

 

次に私達は外国では、その土地の言葉をまず学ぶということでした。ブラジルはポルトガル語です。夫は手術に専念をしていましたので、ぶっつけ本番でしたが、私は、息子たちがいない朝の時間帯で、「宣教師のための語学研究所」が近くにあることを知り週末以外は毎日通いました。

朝9時から12時までの集中講義でした。とても教え方が上手な講師たちで、授業が終わると15分の礼拝がありました。一番おもしろいなと思ったクラスは発音でした。単語の意味はわからなくていいからとにかく、先生の発音を真似るのです。はじめての経験でとても楽しかったのです。6ヶ月コースを終え、なんとか日常生活には間に合う程度になりました。

 

息子たちもさっそくカトリックの幼稚園に入りましたが、よく適応してくれました。ただひとつだけ困ったことが起こったのです。三男の宣道が、二度も同じ女の子に頬をがぶーーと噛まれるということが起きたのです。どうしてそんなことが起こったのかわかりませんでしたが、二度目のときは私も我慢ができず、夫のオフィスの秘書に抗議の電話をしていただいたのでした。確かに、彼のほっぺたはもちもちふっくらでいかにも美味しそうではありました。しかし、それにしてもひどい!

 

大前宣教師御一家とともに

子どもたちは次第にスイスドイツ語を忘れ、新しい言語になれるまでは家での日本語だけでしたし、日本からの商社や宣教師の子供たちとも仲良くなって会話は日本語になっていきました。

 

土曜日には「フェイラ」といって朝市があり多くの人々で賑わい見たこともないバナナも何種類も、トロピカルフルーツや新鮮なお野菜が並べられてまさに南国ムード満点です。ときどき大きなブリも出る時があり、そのお刺身は油がのっていて最高の味でした。

 

シュハスコの大きな肉の塊

食べ物の話が続きますが、「シュハスコ」といっていろいろな部位のお肉をもってきてくださり、気に入ったものを薄く切ってくださるレストランがあります。夫が一番好きな部分は「クッピン」といって1コブ牛のコブの部分です。柔らかくて味わいのあるものでした。

 

また、商社のご主人が少林寺拳法三段の腕前で、夫も大学時代に初段をとっていましたので、パーティーがある毎に、二人の格闘を見せるのが一番盛り上がるイベントでした。夫はいつも勝つ役なのですが、本当は負ける人の業のほうがはるかに難しいからなのです。息子たちはそれを知らないので、パパがいつも勝つので誇らしかったようです。

 

今回は一つのエピソードをお話して終わりたいと思います。

毎朝、パンを6時頃に買いに行きます。そのときにある女性のご老人がお店のカウンターの人との話が通じないらしく困っていました。アジア人です。「日本の方ですか?」と聞くと韓国だと言うので嬉しくなり韓国語で話ましたらとても喜ばれてお友達になりました。移民でこられているのですが、ポルトガル語がわからないようです。家も近くでしたので時々招待されてお昼をご馳走になりました。韓国の家庭料理の定番ですがとてもお料理がお上手なかたでした。

 

ある日、そのおばあさんのご子息が突然意識をなくしたという知らせを聞いたのです。夫の勤務している病院に緊急入院をされていて「くも膜下出血」ということでした。主任教授であるDr. Evandoro とともに夫も入り手術は無事成功して終わりました。ところが、やはり日本の様に階保険がないために莫大な費用がかかるのでとても全額払えきれないと相談にこられたのです。それで、事情を夫から話をして大きくディスカウントをしてくださったのでした。ブラジルの度量の大きさを今更に感じてとても感謝でした。

(つづく)

 

後奏:

お知らせ
以下の内容でウクライナ情勢に詳しい元東欧宣教師の石川秀和師の講演がございます。石川師は現在も、ルーマニアにあってウクライナからの避難民支援活動にあたっておられます。関心のある方は、下のURLまたは写真をクリックください。
日本同盟同盟教団 「教会と国家」セミナー 
○第1回「ウクライナ情勢の背景を学ぶ集い」(全2回)
【講演題】「ウクライナの政治事情」    
【講師】石川秀和師(日本同盟基督教団 支援教師・元東欧宣教師)
【開催日時】2022年7月1日(金)PM8:00-9:00 @Zoomミーティング

 

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