令和4年6月5日 礼拝メッセージ:証集:海外での主のめぐみ ―「スイス(チューリッヒ)(1)」

聖書:

エペソ人への手紙2章:19節-22節
[そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。 またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。 このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。]

 

前奏:

 

私たち家族の約20年間の外国での旅路を思い出しながら、神様の慈しみがいかに絶大であったかをお伝えしたいと思います。

 

本来ならば二人の出会いから書き始めるのでしょうが、今回はそれを飛ばして、家族として初めて出向いたスイスのチューリッヒのお話に皆様をご案内致します。

 

1986年、長男智之が4歳、次男義幸が1歳7ヶ月、三男宣道が4ヶ月のとき、東京を出発してチューリッヒに向かいました。

 

夫の道夫は、東京大学脳神経外科の博士号を受理して、その数カ月後に一通の手紙を私に見せてくれました。チューリッヒ大学の脳神経外科の教授で、当時手術では第一人者といわれているヤサジル教授からでした。道夫が研究者として渡航する正式な招聘状だったのです。彼は私に何も告げず、自分を研究員として留学をさせてほしいと手紙を書いていたのです。結婚前には彼はフロリダ大学で脳の静脈の研究をして論文を出していてそれがどうやら教授の目に止まったようです。脳には溝がありますが、その構造を知ることで脳外科医は脳をできるだけ傷をつけないでこの溝を伝ってピンポイントで手術ができるという目的のための解剖学の研究でした。その手紙の中にはすでに、家族を呼び寄せるための書類と給料などの条件まで書いてくださっていたのです。

 

スイスは憧れの外国ですし、彼にとってはまたとない光栄な機会でした。ところが、その時、彼の父が癌の末期を迎えていて、聖隷病院の三方原病院で日本において初めてのホスピスに入っていました。それなので、私と子どもたちはしばらく残ることにしましたが、義父がはやく息子のところに行って支えてやってほしいと言われて、私達は3ヶ月後に彼の後を追うことになりました。ホスピスケアーのおかげで、義父は痛みも緩和されて、いつか暖かくなったらスイスに行きたいという希望をもたれていましたので、私とは手紙と写真を頻繁に交換していましたが、最後に受け取ったハガキの字が力なく死期が近いことを感じていました。その数週間後に危篤と電話があり、急いで夫だけ日本に帰国してお葬式には間に合うことができました。

病院の看護師長のはなしによると、最後は、義母と兄に見守られ、看護師長さんが聖書を読んでくださったあとに「ありがとう」のことばを遺して、安らかに息をひきとられたとのことでした。

 

義父はクラシックの愛好家で特にモーツアルトとブラームスをこよなく愛していました。

私に一度この様に話されたことがありました。「恵ちゃん、モーツアルトやハレルヤ・コーラスを聞くとね、彼らは神を信じているがゆえにあんなに素晴らしい純粋な音楽が生まれるんだろうと思うな〜。まあ、僕はクリスチャンじゃないけどね。あのような音楽を聴いているとつくづくそう思うんだよ。僕はキリスト教の幼稚園に通っていたんだよ。」とお話をしてくださったことを嬉しく覚えています。

 

幼い3人の子どもたちを連れての長時間の飛行機の旅は無理だと考え、私の父が一緒についてきてくれました。空港にはアフリカのナイジェリアの牧師先生がご自分の車で迎えに来てくださっていました。11月でしたから結構外は冷えていました。

 

最初は神学校の寮に落ち着くことになりました。車を持たないことに決めていましたが、下の二人はまだおむつが必要で買い出しをどうしたらいいのかと思案をしていましたら、そのナイジェリアの先生が、3人を保育園に預けたら良いですよと言って、バスで1停留所先の老人ホームの職員のための保育園をさっそく紹介してくださいました。そこはカトリックの経営で保育の先生は白いベールをかぶらないシスターたちでした。チューリッヒは、ドイツ語圏ですが、ドイツで話されるドイツ語とはおよそかけ離れたスイスジャーマンなのです。

 

ところで、みなさん、覚えていらっしゃいますか?私が韓国でドイツ語は落第点だったのに、歌を歌ってようやく合格したということを。

 

さっそく、私は昼間にはドイツ語会話の集中コース(6ヶ月)の手続きをとり、毎日、市内まで通いながら必至になってドイツ語を習いはじめました。「後悔あとにたたず」ですが、スイスジャーマンを学んだらよかったのにホッホドイツ(標準語)のほうがいいだろうと思ったのが誤りでした。私が話すドイツ語はもちろん理解してくれましたが、彼らの話すスイスジャーマンがまるっきり聞こえてこないからです。反面、子どもたちはスイスジャーマンを短期間に見事に話すようになり、特に義幸は日本語もまだ十分に話せない時期でしたので彼がスイスジャーマンで話す内容が私にはわからなく、智之に通訳をしてもらうという羽目になってしまいました。

 

保育園の先生は一切紙おむつではなく布おむつを使ってくれていました。担当はヨーランダ先生で、とても優しい方でした。義(よし)のトイレ訓練は全部彼女がしてくれて、宣(のり)の離乳食も見事でした。私は土日だけ、一日中子どもたちと一緒にいる母親だったのです。

 

寮にはイタリア人のカップルと生まれたばかりの赤ちゃんがいて、私は初めてりんごのロールケーキをご夫人に教えていただきました。料理をする経験がなかった私がこのスイス滞在中の1年半で日本から持ってきた基本料理本1冊を舐め尽くすように何度も繰り返して、スイスで買ったオーブン料理にも挑戦するようになって、だんだんと主婦らしくなってきたのです。

 

教会は大学附属のチャペルに行き、ドイツ語の説教を英語通訳で3ヶ月ほど聞きましたが、なんだかよくわからないというか、礼拝だけで信徒たちとのコミュニケーションも殆どなかったので教会としては満たされませんでした。それで、私は韓国教会を探すことにしたのです。ちょうど韓国教会の伝道師が神学校の博士号をとるために留学をしていることがわかり、寮にお訪ねして彼の教会に行くことになったのです。牧師先生も博士号をとるために留学されていましたので、牧会はできず、教会の説教だけということで給料なしでご奉仕をしてくださっていました。説教は道夫には私が小声で通訳をし、子どもたちはスイスジャーマンでしたので問題はありませんでした。小さいながらもとても暖かい家族のような集まりだったのです。この教会は礼拝後が楽しいのです。一品持ち寄りでみなさんお料理が上手で、特に道夫は韓国料理がなによりも好きなので、毎週礼拝のあとが彼にとっては魅力があったようです。それに彼はだんだんと韓国語のニュアンスがわかるのか、冗談を言う私達の会話を察知するようになってきたので、めったなことは言えなくなりました。

 

スイスで6ヶ月ほどたったある日、突然、日本からアメリカ人の牧師夫妻が(長年日本で宣教をされていたのですがリタイヤーされていました。)どういうわけか、一冊の本を携えて私達の家を訪ねてこられたのです。どなたに紹介されたのか未だに思い出せないのです。

「朝の9時」聖霊の体験とその後10年間のあかしーという本で、著者はデニス・ベネットでした。

              

私は日本基督教団の長老派で育ち、道夫はフロリダのバプテスト教会で洗礼を受けていましたので、聖霊の説教はほとんどと言っていいぐらい、礼拝説教でも聞いたことがありませんでした。ペンテコステの話はもちろん知っていましたが、聖霊を強調する人にもあったこともなく、本も読んだこともなかったので非常に衝撃的でした。

 

予言や異言はともかく、彼の体験と積極的な信仰の成長には目を見張りました。私達は生ぬるい信仰ではいけないと感じたのです。道夫は研究の合間に聖書を深く読むようになりました。参考になる書籍を日本から取り寄せ、水曜日に聖書の学びと祈祷会をはじめたのです!幸い英語のわかる韓国教会のメンバーでしたので、道夫はテーマを毎週変えて話を要約し、問題提起をし、私達はそれについて話し合い、日常生活に即適応するといった素晴らしい集まりでした。それに加え、自分たちの課題を出し合って祈り合いましたが、それらのすべてに答えられ私達のこころは熱く燃えました。おいおいその話もお伝えします。水曜日の7時前に集まり、来た人から私の手料理で夕食をすませ、全員集まったところで会は始まりました。大雪の日もお流れになったことは一度もなく、またお正月ぐらい休むだろうと思っていましたが、一年間私達がブラジルに行くまで続けられたのです。(つづく)

 

後奏:

 

ご報告
皆様のお祈りとご支援によって、義援金は総額:376,539円にもなりました。心から感謝申し上げます。

ハンガーゼロに送金を終え、受理の報告を受けました。現在、ハンガーゼロとして義援金の使用については次のような案件の報告がありました。

①ウクライナ国境検問所(メディカ)近辺および一次避難所 (プシェミシル、コルチョバ等)での難民に対する活動支援 

②ルブリン市で KFHI(韓国飢餓対策機構)と協力し開設した二次避難所の運営と活動支援

③ジェシユ市にある *GEMの倉庫への日本からの物資輸送 (パンの缶詰、医療品等)に協力、またポーランドで食料 や日用品を調達し、ウクライナ国内への持込を支援

④ウクライナ人孤児、アスリートの支援

⑤戦闘が終了後、ウクライナ国内の復興支援

⑥その他、状況の変化で緊急的に必要とされる支援

「夢を語る会」としては、より具体的に、孤児達のポーランドへの移動とそこでの孤児院建設の一部に使っていただきたい旨の希望を出しています。

参考:教会暦
2022年の今日、6月5日は「ペンテコステ記念礼拝」となっています。

ペンテコステ(五旬節)とは、聖霊降誕祭とも言われ、ギリシャ語で50という意味です。キリスト教の三大祭りである、クリスマス・イースター・ペンテコステの一つです。イースターから数えて50日目(五旬節)に、イエスさまの弟子たちが集まって祈っていた時、突然風の吹くような音が天から聞こえ、家中に響き渡りました。 そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子達一人ひとりの上に止まりました。すると、弟子たちは聖霊に満たされ、それぞれの国の言葉で話しだしました。 弟子たちは聖霊によってイエス・キリストの福音を人々に語り伝える力を与えられたのでした。このようにして教会が生まれました。それで、この日は教会の誕生日とも言われています。

 

 

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