令和4年4月24日 礼拝メッセージ:証集:韓国留学記(3)「落第からのよみがえり」
聖書:詩篇33篇:17節−20節
「馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない。

見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある。

これは主が彼らの魂を死から救い、ききんの時にも生きながらえさせるためである。

われらの魂は主を待ち望む。主はわれらの助け、われらの盾である。」

前奏:

 

梨花女子大学は1886年3月31日、米国のメソジスト派宣教師メアリー・F・スクラントンによって初めての韓国人女子教育の塾「洋国館」として設立されました。

医学部は通常6年制です。(アメリカ合衆国は8年。)梨花女子大学は総合大学で、当時は約8000名の学生がいました。森のような広いキャンパスとヨーロッパの雰囲気が漂う石で作られた趣のある校舎はとても美しく、季節ごとのお花がいたるところに植えられていてよく手入れがされていました。穏やかで緑一杯のキャンパスに入るといつも私はとても幸せな気持ちになるのでした。「神様、このような綺麗な大学に入学させていただき本当に嬉しいです。ありがとうございます。」と感謝でいっぱいになりました。

 

 

特に5月は、自然の美しさが際立っていて、毎年メイクイーン(May Queen=5月の女王)を選ぶコンテストがありました。容姿端麗と共に勤勉であり、かつ人望がある学生を3年生対象に、各学部から選出して2日間にわたり厳しい審査の上メイクウィーンが発表されます。その後、純白の民族衣装(チマチョゴリ)で着飾ったメイクイーンを先頭に、学部ごとに選ばれた薄いピンクのチマチョゴリを着たクイーンたちによって広い運動場でパレードが繰りひろげられるのです。そして、メイクイーンに選ばれた人の写真は大学通りにある写真館で1年間飾られます。

           

医学部の各学年は1クラスだけで60名でした。最初の2年間は教養課程といって、専門的な医学に関する科目はほとんど入ってきません。クラスメートたちとは、朝の連絡時間が15分ぐらいあり、体育と医学英語の時間だけは一緒で、他の課の学生との授業のほうが多かったのです。梨花女子大学は昔からお嬢様大学の名門でしたが(特に英文科は高官のお嫁さん候補第一番でした。)みなさんおしゃれでスタイル抜群、美人揃いなのですよ。

 

余談ですが、アメリカの軍医が週に一度、医学英語を教えにきてくれていました。単語が主ですのでちっとも楽しくはなかったのです。在日韓国人の金(キム)さんがどうしても食道の単語が覚えられないというのです。食道はEsophagus またはoesophagus (エソファグス)と書きます。接頭語と接尾語に区切ってみるとeso+phagusです。esoは外にという意味で、phagousは〜を食べるという意味があります。でも、なんとか面白い覚え方はないものかと考えて、「おヘソを食べるのは食道よ」といったら、大笑いしながら一瞬で彼女は覚えちゃいました。

 

英語の授業はA-Cクラスに分かれていて、私は幸か不幸かトップクラスのAに区分されていました。最初はAクラスに入ったことでプライドをくすぐられたのですが、なにしろ韓国語の授業で教授が言っていることがさっぱり聞こえてこないので授業は時間のロスで成績を維持するのに大変なストレスでした。それで2年生になったときは力も尽きてしまい成績が落ちてBクラスに格下げとなりましたが、その頃は韓国語にも慣れたのでやっと楽になったというわけです。

 

逆に、国語の授業ではほとんどは漢字の試験でした。韓国も以前から中国漢字を使っていて、大人たちには問題はなかったのですが、ちょうどハングル政策に切り替わった時代と重なって、学生たちはほとんど漢字を習わなかったそうです。私がさっさと書くので皆さんから尊敬の眼差しを得ました。それで、成績もなんと国語がAだったのです。また、漢字を知っていることで書き言葉は漢字+助詞を使って通じるので、スピードアップをすることができ、語彙力も増えて6ヶ月後には約束どおり、韓国語だけで試験を受けることができるようになりました。

 

一年生のときは、フリータイム時間というのが週に一回ありました。クラスメートたちはテニスなど色々なサークルに入ることができて楽しんでいましたが、私はその時間を大学院生から韓国語を習っていたのです。

 

韓国では高校生から第二外国語が義務化されていて、ドイツ語かフランス語の選択です。すでに彼らには基礎があったのです。私はドイツ語をとったのですが初めての科目であり、しかも韓国語で学ばないといけなということで非常に大変でした。勿論、一番レベルの低いCクラスでした。夏休みに帰国してドイツ語と日本語の本を買いましたが、どんなに努力しても合格点がとれないのです。60点未満は落第です。しかもその教授は中間テストと期末テストの点数をみんなの前で公表するのです。中間テスト「大田!56点!」次の期末テストでは最低でも64点とらなければ落第です。一つでも赤点をとったら丸一年落第ですからあの面接の時に必ず一年留年すると言われた教授の顔が浮かんできて、それはもう恐怖でした。いよいよ学期末の結果の発表が来ました。「大田!58点!落第!」そのような学生が韓国人でも3−4人はいました。「ああ〜落第だ!」

 

しばらくして、その教授がおもむろに「落第点をとった者に敗者復活戦をしてやろう!歌を上手に歌ったら合格にするぞ!」といったのです。

 

「はい、はい、はい!네, 네, 네.=ネ〜、ネ〜、ネ〜!」と真っ先に大声を出して手を振りました。

教授:「うん?!大田歌うのか?何の歌だ?」

恵「統一の歌を歌います。=통일의 노래를 부릅니다.トンギレ ノレルル プルムニダ」と言いました。朝鮮半島は北と南に分裂しているのですが、いつか統一を実現して我ら民族が一つとなるように命がけで統一を願おうという趣旨の歌です。落第という窮地においやられていたので、祈る思いで感情を込めて歌いました。

 

すると、教授が目を潤ませて「大田!君は日本人なのに私達の民族の願いを歌ってくれるのか〜。合格!」クラスのみなさんが一斉に拍手をしてくれたのです。

 

「神様! 有難うございます。奇蹟が起こりました!」

 

私のドイツ語の成績はF(Fail不合格)を免れたばかりではなく、送られてきた成績表をみるとDの評価よりも良いCをくださっていたのでした!

 

私はこのように支えられて教育課程を落第もせずに3年生の本科に進むことができたのでした。

(つづく)

 

後奏:

 

お知らせ:
 2年前、自主防災の専門家を招いて第1回の防災フォーラムを行いました。コロナ感染症の蔓延のため2年延期となりましたが、今回は阪神・淡路大震災を経験した防災士でもある神戸の音楽デュオ“ブルームワークス”をお招きし、歌声を披露していただきます。津波をテーマにしたオリジナルソングを歌いながら、子供からお年寄りにまで防災についてわかりやすく伝えていただきます。

 

 

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