令和4年4月17日 ウクライナ緊急支援募金活動始まる。礼拝メッセージ:証集:韓国留学記(2)「入試面接での危機」
聖書:「コリント人への手紙第一」10章13節
神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。

 

今日の日曜日は、キリストがよみがえられたイースターです。

前奏:

 

当時、韓国の大学は3月から新学年でした。2月のはじめに筆記試験と面接試験があったのです。勿論、高校の成績で筆記試験は免除ではありましたが、形式上受けないといけなかったのです。

 

アボジ(父)の奇先生が、私のためにすべての留学手続きをしてくださり、ソウル大学の語学研修所にも予約を入れておいてくださっていました。さっそく、お正月明けから韓国語の集中コースが始まったのです。講義は英語でした。集まった生徒はアメリカ人やヨーロッパから来ていて全員仕事で来られた人ばかり、学生で東洋人は私一人で5人のグループレッスンでした。

 

英語などのラテン系や中国語と違い、文法は日本語のように主語、述語という順番なので私にとっては実に有利な外国語でした。家では妹たちや弟たちとの日常会話、そしてオモニの弟さんが医大生でしたので休日には特訓を受けることができました。

それと同時に面接に備えての予想問題を日本語でリストアップをして、アボジに韓国語に翻訳していただき、それを一生懸命暗記して準備をしていたのです。

 

<韓国語の文法一口メモ>
主語+助詞+動詞の順序なので覚えやすいのですが、日本語にはない細かな文法もあります。

例)私は子犬が好きです。나는 강아지를 좋아한다.ナヌン カガジルル チョアハンダ

나(ナ=私 )는(ヌン=は)강아지(カガジ=子犬)를(ルル=を)

좋아한다(チョアハンダ=好きです)

なんとか、1ヶ月で基本的な会話を簡単に言える程にはなったでしょうか?レベルとしては中学1年生ぐらいの英会話程度だと思います。

 

そうしているうちに筆記試験日がやってきました。まあ、余裕ですよね。ほとんどマークシート式なので「鉛筆転がし」でOKです。とくに英語と数学は2年も浪人していたのであまり難しいとは思いませんでした。記述式の答案用紙は白紙にはしたくなかったので、あくまでもこういう問題だなと推定して日本語で書きました。

 

2週間後に「面接試験」でした。韓国の教授はほとんど日本語がわかると聞いていたので、あまり緊張することもなく、片言の韓国語でも予想問題だけはバッチリにできていたので、対策はこれでいいのだと思っていました。

 

さて、面接の当日になりました。家は京畿道(キョンギドー)でしたので、バスを2回乗り換えてオモニ(母)の車さんと大学に向かいました。バスの中でオモ二が「メミちゃん、あのね、大事な韓国語の言葉を教えるから覚えてね」といっておしえてくださったのは、「一生懸命がんばります。」という言葉「열심히 하겠습니다=ヨルシミ ハゲッスムニダ」だったのです。

ところで、どうしてなのかな?と思っていたら、「ごめんなさい。私はクリスチャンですけど嘘つきました。あなたが韓国語を問題なくできると教授に嘘ついたの。そうでなければ入学を許可してくれなかったからなの。」と爆弾宣言をされたのでした。

 

「え!そんな!」絶句です。そんな事情など予想だにしていなかった私はもうドキドキ、バクバク。「どうしよう!」真剣に「ヨルシミ ハゲッスムニダ」を繰り返しました。

そうしているうちに大学の試験場に来てしまいましたので、これは腹をくくらなければと覚悟をせざるを得ませんでした。心の中では「神様!絶体絶命です。助けてください!」と叫んでいたのです。

 

教授陣がずらりと十人ほどならんで座っている教室に、挨拶をして真ん中の椅子に座りました。最初は自己紹介なのでスムーズにいきました。それから、予想問題が当たり、ほっとしていたのですが、途中で一人の教授がペラペラと質問をしてきました。さっぱりわかりません。

しばらく沈黙のあと、私は英語で, " I’m very sorry, I can’t understand what you say.”と答えました。

特に英会話ができたというのではなく、こういう状況のなかで、母国語の日本語はせめて使いたくはなかったのです。2,3英語で質疑応答をしましたがそのとき、オモニが教えてくれたあの言葉を言うときが来たと思い「ヨルシミ ハゲッスムニダ」を連発しました。

 

すると教授たちはお互いに顔を見合わせ非常に困ったという顔をしていました。ついに医学部の学部部長が頭を抱え込んでしまったのです。そして、彼は日本語で「大田恵さん、あなたの意欲はよくわかりました。でも、これほどの韓国語では入学は無理ですね。あなたのためです。日本にお帰りになったほうがよろしいですよ。」と言われてしまったのです。

もう眼の前が真っ暗になってしまいました。

 

「私は、今は韓国語ができません。でも、6ヶ月私に時間をください。必ず試験には韓国語で書けるようにします。それまで英語と日本語で試験を受けさせてください。お願いします。

ここまで来て今更日本には帰れません。お願いです。入学させてください!」と日本語で訴えました。すると、もうひとりの女性の教授が韓国訛りで「梨花女子大学は1年の留年は認めますが、2年続くと退学になりますよ。まあ、こんな実力では必ず1年は留年になるでしょうけど。」といわれました。「わかりました。そのときは帰ります。ヨルシミ ハゲッスムニダ」と言って面接は終ったのです。

 

心配しながら待っていたオモニは「どうだった?」と私の目を見てたずねました。「はい、やはりバレましたから、ヨルシミ ハゲッスムニダを言い続けました。」といってその面接の一部始終を話したのです。すると、「ハハハ。よかった、よかった」と笑って私の肩を抱きしめてくれたのでした。こうして、面接試験はなさけなく終わりましたが、幸いにも合格の通知を受けたときには日本の家族に電報で「梨の花咲く!」と打ったのでした。日本では「桜散る」の知らせをもらっていた私がはじめて「梨の花が咲いた」喜びの瞬間となったのです。

 

そして、新入生の身体検査がありました。大きな体育館で学部別に区切ってするのですが、あちらこちらで、学生の歌声が聞こえるのです。私の番になり、歌を歌いなさいと言われたのです。「は!?歌(노래ノレ)ですか?」勿論、韓国語の歌は2つ覚えていましたから、「アリラン」を歌いました。検査する人たちは私がたどたどしい韓国語で話すので一見して留学生だと分っていましたから、からかい半分、歓迎の意味なのか拍手喝采をしてくれました。

 

次に、またユニークな注文を要求されたのです。「アラベスクをしてください。」というのです。

アラベスクとは、バレエにおける技法の1つで、片方の脚で立ち、もう一方の足を上げるポーズをいいます。いわゆる、バランスがとれるかどうかを見るのだと思いました。

私は小学生の頃にクラシックバレエを習っていた経験があるので、「はい」と言ってこのようにポーズをとったのです。すると、「オー!」と言ってまた拍手喝采でした。

やあ〜。「芸は身を助く」といいますが、神様は無駄なことはなさいませんね〜。

 

こうして、私は医学部教育課程のピカピカの一年生になることができたのです。(つづく)

 

後奏:

 

お知らせとお願い:
ウクライナ緊急募金活動始まる!

串本では観光客が一番賑わうところの橋杭岩の駐車場で募金活動をはじめました。

あいにく小雨が降るときでしたが、東京、名古屋、大阪、京都、奈良、和歌山市から来られた人々の有志が寄付をしてくださり、合計6,343円にもなりました。また連休前後の晴れた日にする予定です。幸いなことに、和歌山ラジオ放送局の記者の引本氏も応援に来てくださり、生放送でインタビューをしていただきました。また、道夫医師と二人だけということで、募金のお手伝いをしてくださる方の呼びかけまでしてくださり大変励みとなりました。

串本町では、病院、ヘアーサロン、お琴の教室、和菓子店、レストラン、有志の学校、ホテル、喫茶店、整体医院、古座川のホテル&温泉、染め物教室、三重県紀宝町と東京の楊名時太極拳教室、紀宝町の「歩く道場」など、個人のお家にも募金箱を置かせていただいています。また遠くは神奈川県のシニアの健康を考える会、建築事務所など複数募金箱を設置してくださって、全部で30箇所にご協力を頂いています。個人ではアメリカ及び遠方からも口座にご寄付をしてくださる方が増えています。皆様に心から感謝申し上げますとともに、一層のご協力よろしくお願いいたします。

 

ポーランドのメディカよりハンガーゼロの日本人スタッフからの報告です。下のボタンをクリックしてください。:

 

 

 

 

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