令和4年1月23日 台北市「カフェチャーチ」日語部 聖日礼拝説教 「試練の時に」

聖書:

新約聖書:ヨハネによる福音書16章33節
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
旧約聖書:エレミヤ書29章11節
「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり,あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」アーメン!
説教:

私たちは様々な問題に直面して、人生の岐路に立たされることがあります。愛するものとの別れ、病気、事故、災害、失業、失敗、経済的困窮等々。少々の試練は自分のこれまでの経験や知恵を総動員して、家族や周りの人々の励ましで乗り切ることはできるかもしれませんが、先が見えなくて一歩も歩けず、頭をかかえてしまうということに直面する時があります。今日、短い時間ですが、神様からのお導きをいただきながら、試練のときにどうしたらいいのかを共に考えたいと思います。

 

人生における危機においての備えは、いきあたりばったりでは間に合いません。パニックになりかねないからです。特に災害などは普段から個人も、地域も、国も充分な対策をしておかないといけませんね。そうしていても予期できない災害にあうと防御することができず、大きな災害に巻き込まれます。

健康もそうですね。予防から始まり、早期診断、早期治療、リハビリ、また終末期医療とありますが、人生一貫してまた注意深く備えていく必要があります。今、私達はコロナ感染で世界がたいへんな危機を迎えています。心してみんなが協力しあって乗り越えて参りましょう。

 

信仰も同じだと思うのです。御言葉を常に蓄えておくことはとても大事なことですね。でも、知識としてではなく、日常生活において、それを生かして用いる努力をしないと、かえって律法主義になってしまったり、実際に困っている人々にたいして手を貸せなかったりすることもでてきます。また順調なときはイエスさまの愛を素直に感じていても、試練がくると感謝がなくなってしまうのが私達の弱さではないでしょうか?

 

私達が持っている信仰を強めるという努力をするというよりも、むしろ、「イエスさまの信仰に信頼を寄せる」ことに目を向けるというのはいかがでしょうか?

 

そのためには、まず、神様がイエスさまをこの地上に送ってくださった理由をもう一度確認しておく必要があるかと思います。人類を罪=原罪から救い出すために、永遠の命を与えるためには、独り子の罪のない主キリストが人類の身代わりとなって十字架にかからなければならなかったということは、クリスチャンならどなたでもすでにご存知です。一人も滅びないで救われることが神様のまた、イエスさまのおこころなのですね。この使命をもたれてイエスさまはこの世に生まれてくださいました。みなさんも、私もすでに無条件に救われているのです。あの十字架の血潮によって。救いの勝利はこれからではなく、あのときなのです。

もう一つ、今日お伝えしたいと思うのは、私達の願いだけのために神様を利用してはいけないということです。「いいえ、神様を利用するなんて思っても見たことなどありません。」と今心のなかでおっしゃいませんでしたか?(^o^)

でも、祈る時のことを考えてみますと、私を含めて、いつもお願いごとがほとんどですね。祈りは神様との対話であるはずなのに、こちらが一方的にお願いすることばかりではないでしょうか?

でも、どうぞ、誤解しないでください。私達は何でも願って良いと許されています。しかし、結果は「神様の御心にお従いします」という覚悟とどんな結果になろうとも、神様は必ず最善をなしてくださるという信仰がなければ、キリスト教は八百万の神のご利益宗教とちっとも変わらないのです。

 

イエス様のご生涯をもう一度思いおこしてみましょう。

聖霊で身ごもったとマリアとヨセフに天使はつげましたが、世間の人々にとっては何の証拠にもなりませんでした。当時の人々はイエスさまの出生の秘密について指をさして陰で非難していたことでしょう。裕福で立派な学歴や地位がありましたでしょうか?早くに父親のヨセフさんがなくなったことで、母親と多くの兄弟を養うために汗して働かれました。30歳になり、いよいよ伝道に向かう時に荒野でサタンからの挑戦があり、人間が持つすべての欲の誘惑を受けました。「神様だからできたんですよ」と簡単に私たちはスルーしてはいないでしょうか?

 

当時の多くの人々はイエス様の奇蹟を見たので神の子として信じられたのですが、それでも自分の都合が悪ければ簡単に離れていきました。弟子でさえ、イエスさまのお心を知らないで勘違いをしたり、弟子の特権だとプライドを持ったりしていましたね。ユダも裏切りましたけれど、すべての弟子がイエスさまを捨てて逃げ去ったではありませんか?イエスさまは生身の人間としてこの世で一番試練を受けられたお方です。だからこそ、私達の弱さをもわかっていてくださるのでしょうね。

 

イエスさまは、何度も繰り返して御言葉の真理を伝えようとなさいました。人々の要望に答えて癒やしつづけ、パンを与え、ラザロまで生き返らせてくださったにも関わらず、人々は受け入れませんでした。何一つ地上では報われなかったのです。そしてマタイによる福音書26:39のゲッセマネで「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯(さかづき)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られました。私達はもっと謙遜にならないといけないのではないでしょうか?神様は私達のお願いごとを聞いてくださるだけの存在ではないのです。

 

最後に私の証をお話して終わりたいと思います。

11年前の8月、還暦を迎えて8日後、突然心不全を起こして意識不明になった私は、ヘリコプターで病院に搬送されました。そこで原因不明の難病、肺動脈性肺高血圧症という不治の病であると診断されました。5ヶ月間入院しましたが、治療する方法が確立されていないためにあと3ヶ月の命と宣告されたのです。それに加え、入院した10日あとに台風12号の豪雨のためにダムが決壊して住まいは水害にあい、家財すべてを失ってしまいました。私は不治の病、夫は住む家と家財すべてを失うというダブルパンチでした。

 

家族はじめ多くの人々の祈りにささえられ感謝でしたが、私には平安がなく、葛藤が去りませんでした。「もっと生きて医師として、牧師として働きたかったのに、神様なぜですか?!」と恨みがましいことを祈りでつぶやきました。本当に孤独を感じましたね。今までの信仰はどこにも見当たらないほど動揺していたのです。しかし、とうとう観念して、私は死ぬのだと腹をくくり、神様のみ心にお従いしますと祈りました。

 

住居を失ったので、夫は新しい借家をさがして、とりあえずの家具を揃え、私はパジャマのままコートをひっかけて退院をしました。ところが、覚悟していた3ヶ月がたっても医師の宣告はおこらず、在宅酸素3L(リットル)を24時間流しながら,夫に生活のすべてを支えてもらって2年間、寝たきりでの状態で療養を続けました。そして徐々にでしたが回復していきました。ところが7年後、最悪の状況になり、いよいよ死ぬときがやってきたと思いましたが、そのときには不思議にもう動揺はしませんでした。これだけ神様は7年も生かしてくださったのだから感謝だったのです。でも、神様のお導きがあり、優秀な医師に出会い処方してくださった新薬が私にピッタリあったのです。今11年目を迎えていて、信じられないほど元気にしています。神様と祈ってくださった人々に心から感謝しながら毎日を過ごしています。

 

でもみなさん、これですべてハッピーエンドにはなりません。人はいつか肉体は滅びるのです。しかし、私はもう恐れません。たとえ死の谷を一人で歩くときもイエスさまが共にいてくださるという御言葉が実感として確信できるからです。

 

今、試練の真っただ中におられる方々にお伝えしたいのです。私の言葉ではなく、イエス様がくださったみことばを共に読んでメッセージを終えたいと思います。

新約聖書:     ヨハネ福音書16:33

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

旧約聖書:      エレミヤ書 29:11

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり,あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」アーメン!

祝祷:
イザヤ6・8

「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」

主イエス・キリストの御恵、神の御愛、聖霊の親しき御交わりが、カフェチャーチに連なるすべての人々の上に、また全世界の人々とともにありますように! 

アーメン

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