令和3年8月29日礼拝メッセージ「愛につつまれて」

 

メッセージ「愛につつまれて」

旧約聖書エレミア書29章16節
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
新約聖書:<第一ヨハネ4章9節-10節>
 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

「生きる喜びはどこから生まれてくるのか?」と、ふと考える時があります。そういう時は、私の場合、喜んでいる状態というよりはむしろ、なにかしら少し心にひっかかるような出来事や自分自身に虚しさを感じている時なのかもしれません。素直に喜べない何かがある時なのです。

まあ、それはさておき、

生きる喜びを感じられるというのは、言い換えると「幸せだな」と思えるときだと思いますが、皆さんは、どのような時に喜びや幸せを感じますか?

人は「あたりまえ」と思っていると感謝の気持は生まれません。感謝の気持ちがないと喜びもありません。「数えてみよ主のめぐみ」という子供賛美歌がありますが、感謝を思い起こす時、人は幸せに一歩近づくのではないかと思います。

 

今、パラリンピックが行われています。

一人の女性の選手がこのような意味のことを言っていました。「私の試合を見ていただいて、喜んでくださる笑顔のために頑張りたい」と。これだな!と思わず拍手をしました。

 

パラリンピックの精神
1.勇気:マイナスの感情に向き合い、乗り越えようと思う精神力。

2.強い意志:困難があっても、諦めず限界を突破しようとする力。

3.インスピレーション:人の心を揺さぶり、駆り立てる力。

4.公平:多様性を認め、創意工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力。

メダルの色だけを追求して、取れなかったときの悔しさのために、号泣して、スポンサーや応援してくれている人にすまないと謝っている選手を見ると悲しくなりますし、気の毒になります。悔しさをバネにして次のモチベーションを作るという昔ながらの「不屈の精神」があるのかもしれませんが、そこには、今まで努力してやってきたという達成感や応援をしてくださった人々への感謝はその悔しさの涙、自分を攻める後悔から果たして実るのでしょうか?「勝ち敗け」だけにこだわる人生観ではない、もっと意義のある大会であってほしいと願います。

 

前置きが長くなりましたが、聖書に戻ります。イエス様の周りには、いわゆる健康的にも、経済的にも社会的にも豊かな人は極端に少なかったと思います。様々な障害を持った方々がなんとか助けていただきたいと願って来たのでした。そこでイエス様はどのように人々に接し、彼らの要求を満たし、さらに生きるのぞみと幸せを与えたのでしょうか?今までに聖書を読まれたことがあったり、メッセージを聞かれた方がたはイエス様がどのように彼らのニーズに答えられたかはご存知のことと思います。

今日はその具体的なお話は割愛しますけれど、

 

イエス様がどのようなお方かということについて、3つのポイントから要約して学びたいと思います。

 

1.私たちを見ていてくださる。

イエス様がその人たちを「見た」という場面が数多く記されています。そしてかれらをご覧になった後、必ず変化が起こっていることに着目したいと思います。イエス様は私たちをご覧になり、深く目を留めてくださり、私たちの様々な状況、必要を知ってくださるのです。私たちをそのように見ていてくださるのです。そしてそれだけではなく、さらにイエス様は私たちに対して素晴らしい計画を用意されているのでした。その人がその人らしく生きる強さを与え、理解ある人々に大事に扱われ、自分自身を肯定することができて、生きる望みを得たと私は信じます。時代がかわってもこれはかわりません。

2.関わりを築き私たちに触れてくださる。

また、「手に触れられた」「私について来なさい」と関わりを築いておられます。単なる「病気を治して、はいおわり」ではないことがわかります。勿論、いやされた人であっても、すべての人がイエス様についていったのではありませんが、癒やしていただいた人の人生にその時だけではない、その人の辛かった過去からその後に及ぶ一生を通しての意味と恵を知ったことで感謝の生活に入ることができたと思います。

3.私たちの身代わりになってくださる。

なぜ、イエス様が触れて関わると彼らは癒されたのでしょうか? それはイエス様が身代わりになってくださったからなのです。全ての呪い、重荷、煩い、病いを彼らの代わりに背負ってくださったから癒されたのです。

本当なら罪咎の罰は私達人間が負うべきもの、償うはずでした。けれどイエス様が代わりとなって、十字架の上で私たちが受けるべき罰を受けてくださって、ご自身が神様と人との和解を成し遂げてくださったのです!

このように私達クリスチャンは信じています。

最近、聞いた話があります。

1)「今だけ、金だけ、自分だけ」という現在の社会的な風潮に飼い慣らされ、知らぬ間にそれが当たり前だと思い込んでしまう。そして身も心も疲れ果て心身を病んでしまう。

 

2)もうひとりの方はこのように話をしています。

四つの0(ゼロ)

「心の居場所がない」「自尊感情がない」「人生の目標がない」「他者から必要とされていない」

このような風潮の現実にまさに私達は生きているのです。変わらない、かわろうとしない状況の中にあっても、神様の愛につつまれている私達は日々新たに生きていけるのです。

 

 

 

 

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