「神の子が受けられた誘惑の意味」2021年6月6日

メッセージ:「神の子が受けられた誘惑の意味」    2021年6月6日

聖書:ルカによる福音書 4:1-13 (新共同訳)
さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 イエスはお答えになった。 「『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』 と書いてある。」 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 というのは、こう書いてあるからだ。 『神はあなたのために天使たちに命じて、 あなたをしっかり守らせる。』 また、 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、 天使たちは手であなたを支える。』」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

今朝はとても有名な聖書のお話ですが、イエス様のidentity(本来の姿)を知るためにはとても大事なところです。ご一緒に少し内容を膨らませながらゆっくりと学びたいと思います。今回私は、聖書が書いているそのままの言葉ではなく、私の想像を加えていますし、順序も話しやすいようにしていますのでご了承ください。

まず、イエス様が受けた誘惑とはどういうことだったのでしょうか?

1つ目の誘惑です。

「空腹でしょう?石をパンに変えてみればよろしいではありませんか!

あなたは万能な神の子ですから、我慢する必要はありませんよ。

神の子として人々が困っているのを解決してあげようとしておられるのでしょう?

私に今その奇跡を見せてくださいな。」

イエス様のサタンへの言葉は「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのことばで生きる。」<申命記7:3>でした。

パンを石に変えるなどはお茶の子さいさいだったと思いますし、石に変える能力とその権利を持っておられる神の子ですから。

「人はパンのみで生きるのではないという」というのは、神様がイスラエルに命じたことであり、イエス様の生きる姿勢だったのです。神様が望まれる生き方というのは、自分が欲する欲で生きるのではなく、神様のご計画に従って生きるという生き方なのです。ご利益宗教といいますけど、どのような宗教の中にもお願い事の要素が一番多くありますよね。お祈りの内容をみるとわかります。「神様、こういう問題が起きました。解決してください!」と祈っています。私も同じなのです。そしてそれだけでは恥ずかしいので、「神様の御心ならば」をつけ加えているのですが、正直に言えば、ご利益宗教の内容とさほど大きな差はないと思われます。

さ!ここからどのようにすれば、イエス様のお祈りに近づくことができるのでしょうか?私達一人ひとりの大きな課題ですね。主の祈りがそうであると言われていますが、果たして現実はどうでしょう?

次の誘惑です。

「神殿の屋根から飛び降りてみてくださいよ。

神は決してあなたを危険な目には合わさないではずですよね。常にあなたを保護しておられるので危険はないはずです。」

2番目の誘惑では、悪魔は攻め方を変えてきます。第一番目の試みで、イエス様が聖書の言葉で対抗してきたため、悪魔も同じように聖書の言葉を使っています。このようにサタンも聖書を使うので、私達も気をつけなければいけませんね。聖書に書かれている言葉は神様の御言葉と信じていますけれど、それをどのように使うかが私達にとってはとても重要になりますので、短絡的に「聖書にこう書いているからこれが正しいとするというのにはかなりのリスクが伴うということになりますので注意が必要になってきます。

すなわち、サタンはこの旧約聖書を使いました。「わざわいは、あなたに降りかからず、疫病も、あなたの天幕に近づかない。主が、あなたのために御使いたちに命じて、あなたのすべての道で、あなたを守られるからだ。彼ら(御使いたち)はその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする。」

<詩篇91:10-12>

イエス様はサタンにどう言いましたか?

『あなたの神である主を試してはならない』これは「主なるあなたの神を試みてはならない」(申命記6:16)という言葉から引用されました。モーセがイスラエルの荒野での四十年を振り返って語った言葉です。

 

しかし、私達の信仰の歩みにおいて神様を試したことのない人はいらっしゃいますでしょうか?信じますとはいうものの、実現するまでは半信半疑ですよね。おそらく、信仰を持った時は神様の存在を信じ、救われた感謝で満たされたかもしれませんが、完全に信じきって生活できたかどうかは別の問題だと思います。信仰は生活しながら、だんだんと成長していくものですから、神様がいかに御慈悲のある御方で、しかもきめ細かなご配慮をしてくださっているのか、私のような小さなものにも親しく語りかけてくださるお方であるということが実感できるのもやはり時間がかかりますよね。祈りは、親しい神様との対話ですので、これもイエス様がどのようなお方であるのかが生活を通してお互いの信頼関係が深まり、どんな大変なことがあっても大丈夫だという確信にいたるのにもやはり時間がかかるのですね。しかし、時間というのはただ過ぎていくこともありうるので、長く信仰していれば自然にわかると言うのでもないと思います。

次の誘惑です。<マタイの福音書:4:8-10>

「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう」そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主のみに仕えなさい』と書いてある」 

これがサタンの究極的な誘惑であったと私は思います。

神様がお決めになった苦渋のご計画は、イエス様を地上に送り、現在、過去、未来全ての人類のために十字架にかかって死ぬ事だったのです。

みなさん!誰一人死ぬことを最大の使命として生まれてくる人はいないですよね。私達の人生はこの世になぜ生まれてくるのですか?生きるため、より良く生きるためではありませんか?ところが、それだけではないと聖書は語っています。たとえこの肉体は死んでも永遠の命にまで続いているのだと言う福音を宣言しているのですね。死は終わりではないのです。サタンは、そのイエス様の使命を見抜いていました。神の子としての特権を自分のために使ってみよという自己中心的な行動への誘惑からはじまり、さらに十字架に続く永遠の人類救済を抹殺したかったのがサタンの誘惑の目的だったのです。

聖書を使っての攻撃も効果がなかったので、悪魔は最終手段に出るのですね。

この誘惑は、ただの「悪魔崇拝」の誘惑ではありません。十字架にかからなくていいよという誘惑だったのだと私は確信しています。

十字架にかからなくたって、たった一度私にひれ伏せば、この栄光と誉れを全部おまえにやるよ。」こうして悪魔は、十字架での死、そして復活と、永遠の命という、イエス様の最大の目的を奪おうとしたのです。なんて巧妙な誘惑であったかと思いますね。

この3つの誘惑に対して、イエス様は全て「申命記」で対抗しました。申命記は、「トーラー」(律法)と呼ばれる5つの書物の最後にあたります。イスラエルの民に対して「律法」をまとめている書物なのです。彼らにとっては最大の掟であり日常生活を制限するものになっていました。悪魔の誘惑に対し、イエス様は完全に「律法」を用いて対抗したのです。ユダヤ人にわかるようにお話になったのですね。

 

もう一つ疑問があります。

なぜイエス様が誘惑を受けなければいけなかったのでしょうか?

エス様はメシアなのだから、こんなめんどくさい誘惑など受けずに、さっさと宣教を始めればよかったのではないでしょうか?サタンの思惑とは違い、私達にあることをお示しになっているのではないでしょうか?

 

エス様は、私たちの人生においても、必ず誘惑(問題や課題)があると見ておられます。どうそれらに対処をしていくのかを示してくださったのだと思います。

さらに、イエス様は、神の子でありながら、私たちと同じ目線にまで身をかがめてくださって、ありとあらゆる人生の戦いに勝利をすることができるようにその道を示してくださっているのではないでしょうか?

「イエス様が神の子だからできたのです、私なんかにできるはずもありません。」とつぶやいた事はありませんか?新約聖書のヘブル人への手紙、4:14-15にはこう書かれています。

「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」

有り難いですね。イエス様は、私達とかわらない人間として生き抜かれました。空腹も味わい、人々を愛しても裏切られ、絶望にも陥りましたし、いつも穏やかではありましたが、時として、神を冒涜するものに対しては怒りを表しましたね。またどれだけ多くの涙を流されかと想像します。このような身近なイエス様を見つめる時、イエス様が受けた誘惑の意味を自分の問題として考えてみようと思います。

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