令和4年10月16日 礼拝メッセージ:証集:海外での主のめぐみ―ザンビア(1):「期待はずれの夢」

聖書:

マタイによる福音書 6章:33-34節
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」

 

前奏:

 

私達が結婚を決めた最大の理由は、共通した使命感と夢があったからでした。夫は、フロリダ大学での脳の研究を終え、続いてニュヨークのアルバートアインシュタイン病院で脳神経病理の研究をしていました。

 

一方、私は聖隷浜松病院で研修をしながら、近い将来アフリカ医療宣教を目指して準備をしていたのです。ある日の夜、ニューヨーク在住だった姉から小野道夫という医師の証を聞きました。彼が年末に一時帰国をするので、その時に私に会いたいということでした。

 

(参考)
道夫医師の証をご覧になっていない方は以下のサイトをクリックしてみてください。

http://mustardseedchapel.com/sermon/michio316/

 

12月31日の大晦日に飯田橋にある富士見町教会で会うことになったのです。「お見合いの男女が何故そんなところで?」と思うかも知れませんね。

私は医師としてアフリカに行きたいと思っていたので、同じ使命を持つ結婚相手はそうそういないと思っていましたし、結婚へのあこがれもありませんでした。しかし、もしも結婚する可能性のある男性が現れたとしたら、主任牧師の島村鶴亀先生に相手を品定めしていただきたいと思っていたからなのです。なぜなら、島村先生は人の真実を見極められるかたでしたし、また私という人間の長所も短所もよくご存知だったからなのです。

 

3人でお話をしたあと、私は先生の服の袖を引っ張って他の部屋で彼の印象をたずねました。すると「小野先生はとても優秀で、また何年もアメリカ留学をしているにも関わらず英語のわからないわしに気を遣って横文字を一度も使わなかったな。謙虚な人だとわしは思う。ただ、まだ信仰を得て間がないのでこれから成長せんといかんな。彼の周りに良いクリスチャンを置いてやることが必要だね。」と言われ、合格点を出されたのでした。

 

人が結婚に至る出会いや経過は様々であると思います。私達はこうして医療伝道者としてアフリカに行く夢をそれぞれが持っていて、今後は家族としてさらに二人が力を合わせて実現できるという意志を確認することが出来ました。そして、彼には一人の1歳になる坊や(智之)がいて、彼の母として育てたいという神様からのもう一つの使命が与えられたような確信が私にはあったのでした。

 

富士見町教会の一室で、島村鶴亀先生とその友人ですでに牧師を引退されていた山田先生、そして私が尊敬していた菊田澄江先生のお3人に出席をしていただき、私達二人はお互いに聖書を交換する質素ではありましたが意味深い婚約式をしていただき、3ヶ月後にはニュヨークで結婚ということになりました。

 

私達が神様にたえず願い求めたアフリカ宣教の祈りが応えられ、いよいよザンビアへの扉が開かれたのが結婚後共に祈り始めてから11年目のことでした。

いよいよ3人の息子達とともにアフリカのザンビアに赴任することになったのです。

 

夫は、ザンビア大学の脳神経外科の助教授として招聘されていました。しかし、給料は月に100ドルという条件でしたのでこれでは生活はできません。ましてや、3人の息子たちの教育もできないのは明らかでした。それでも、私達は自分たちの貯めたお金で行くつもりでいたのです。しかし、そのような時に神様は、さらに奇跡の方法で解決をしてくださったのです。

 

というのは、当時私たちの目指すザンビアの日本国大使館には医務官はいませんでしたが、1993年から日本外務省が新たにザンビアに医務官を駐在させることを知ったのでした。このザンビア駐在医務官に応募し選ばれるためには、是非とも長崎大学で熱帯医学を学ぶ必要が私にはありました。そして、熱帯医学研修を終えアルゼンチンへ帰国する途中外務省で面接を受け、ついに私がザンビアの日本大使館初代の医務官として赴任することになったのです。私は外国では医師としての経歴がなかったために2等書記官の身分でしたが、それでも家族を養うには十分なサラリーでした。今まで夫の給料で生活していたのにいっぺんにその立場が逆転したのです。

 

私達家族は、富士見町教会員からブレズレンホーリネス教団の淀橋教会(主幹牧師:峯野龍弘先生)に移籍をしていたのですが当時、峯野先生がワールド・ビジョンの日本総裁としても活躍されていてこの教会からの宣教師として私達をザンビアに派遣してくださるという恵をもいただきました。そして,先生は実際にザンビアにも来てくださり、オーストラリアと日本のワールドビジョンの基金をいただいて、ザンビアに3か所のクリニックと現地職員の宿舎を建設することが出来たのです。以下の写真は、ワールドビジョンザンビアの地域プロジェクトリーダーの女性です。ザンビア北部の辺境地のためザンビア航空医療団のセスナで野原へ着陸します。村人もみんな建設に参加します。医師、看護師が来てくれるように職員住宅も一緒に建設します。

 

また、日本の郵便局のボランティア募金からもお金を頂いて36基の井戸を掘ることが出来ました。以下の写真は、ザンビア南部は干ばつがひどく、乾期には、川底を掘って染み出る水を集めます。女の子たちは8歳になると水くみが日課、1-2kmを往復します。構造が単純で壊れにくいインド製の井戸を設置します、そして村人に修理方法を訓練し修理機材も供与します。

 

大使内に医務室も新しくいただきましたが初めて開設するのですから備品も器具類も何もないのです。日本から送るのはあまりにも遠く時間がかかるということで、南アフリカで調達をするのが最初の任務でした。医務官の先輩である夫に注文のリストを作ってもらい、私は南アフリカに出張に出かけました。プレトリアの大使館秘書がとても親切で、バックアップをしてくれて大変助かりました。

 

また、ザンビアは医療事情が不十分でしたので、万が一、深刻な患者がでた場合に救急搬送する病院の見学も幾つかしました。その一つのICUでは、若い20代の女性が脳性マラリアで意識を失い人工呼吸器に繋がれているのを見て非常に恐怖を覚えました。

 

また、私の仕事はザンビアだけではなく、周辺諸国のジンバブエ、ボツワナ、南アフリカの医務官も兼務していましたので、数ヶ月ごとには1週間ほど家を離れて単身で出張がありました。

 

大使館員はその家族も含めると20余名でした。また、邦人の健康相談や問い合わせに応えるべく現地のクリニックの医師とのつながりも大事な仕事でした。

 

ザンビアの厚生省との情報を日本に伝えることもルーティーンの仕事でしたので、エイズ、コレラ、マラリアの感染情況を時々電話でザンビアの厚生省に問い合わせをしては本国にワープロを打って報告をしなければなりませんでした。このような仕事をするために、長崎大学で学んだ熱帯医学が少しでも役に立つかと期待したのですが、実際にはほとんどその恩恵を受けられず終わったように感じました。

 

一方、夫は脳外科の手術をザンビア大学でしていましたが、手術そのものは成功してもその後の管理が困難でした。日本では助かる患者でも抗生物質が不足しているザンビアではなかなか良い成績を上げるのには限界があり、非常に残念で葛藤があったと思います。

その中でもポーランドのシスターたちが経営するカシシという孤児院の6歳の少女の脳腫瘍は見事に回復をみることができたことは大いなる喜びでした。孤児の多くは両親がAIDSで亡くなっており、子供たちも多くがHIV陽性です。

 

子どもたちはアメリカン・スクールに入り、智之は小学6年生、義幸は3年生、宣道は1年生でした。土曜日には日本の補修学級もあり、彼らは問題なくすぐに環境に適応してすっかりザンビアの暮らしを楽しんでいました。現地のワーカーたちからも「シマ」というとうもろこしから作られている主食をもらって食べたり、現地の子供達とのサッカーを楽しんだりして私達よりも彼らのほうが本当の外交官のようでした。

ザンビア人の師範から空手を教わっていました。

      日本人補習校  校長先生は大使館員の福田氏

ザンビアの少年たちは裸足でしたが素晴らしいキックさばきでした。

 

ザンビアは熱帯熱マラリアがあり、現地の子供達の死因の大きな割合をしめていましたので、予防薬や日本から蚊取り線香と睡眠中に使う電気蚊取り、雨季には必ず停電すると聞いていたので重たい発電機を日本で購入し用意をしていました。水道水はそのままでは飲めず煮沸したあとに英国で手に入れたろ過器で飲料水を貯めました。網戸をみると大きな穴があるのです。蚊が入らないように修理をしました。また比較的治安が良いといわれていましたが、日本に一時帰国をしてザンビアに戻る前日に我が家に泥棒がはいりました。また、公使が運転していたランドクルーザーもピストルをつけつけられ奪われた事もあったのです。そしてケニアの日本人学校の校長先生がピストルで殺害された事件もあってやはり厳重な自己防衛の体制が必要で家には5匹の番犬を飼い、24時間体制の警備員を雇わなければなりませんでした。

 

私は医師として、また外交官としての重責になかなか慣れず、おまけにアメリカから冷蔵庫、オーブン、洗濯機はじめ、お米、塩、小麦粉など約3年間分を送ったもののなかなか到着せず、ランチに家に帰っては手で洗濯をしなければなりませんでした。通常、掃除兼庭仕事の人、料理を手伝う人を雇うのですが、それも適当な人がなかなかいなく主婦としてのノルマもこなさなければなりませんでした。

 

とうとう心身ともに疲れ果て限界状態になってきました。だんだん鬱々としてきたのがわかりました。集中力がなくなり、イライラしはじめ、不眠症になり、食欲減退、不安がつのってきてこれは「うつ病」だとわかりました。金曜日の夜を待ちかねてベッドにうずくまるという状態にまでなってきたのです。

 

すぐに日本の外務省に抗うつ剤と抗不安薬を依頼して服用していましたが、副作用のほうがきつくてなかなか回復しないまま6ヶ月が過ぎた時点で大使に話をしました。普通は1年過ぎないと一時帰国は許されないのですが特別に許可をいただき東京の虎ノ門病院の精神科に受診をさせていただきました。

 

成田空港についた途端なんだか吹っ切れた感じで受診したときはすっかり楽になっていて精神科医師は「うつ病には思えないけれども一応抗うつ剤は出しておきましょう」ということでした。当時は今のように副作用が少ないものがなく古典的な三環系のものでした。日本の精神科医の本を色々と買い求め夫とともに読みあさりました。

 

一時帰国で、気持ちも楽になりこれでやっていけるかと思いましたが、夫はやはり大事をとって引退することを勧めました。子供や夫を置いて他国に出張があることも負担になっていたこともありとても残念でしたが、私は9ヶ月後に医務官を引退して彼に引き継いでもらったのです。

 

夫の脳外科は特別のときにだけ手術をすることにし、医学生への講義をすることに替えていただいて給料を辞退したのでした。

 

もうひとつ、私にはショックなことがありました。ザンビアのキリスト教人口は当時90%以上だといわれるほどでした。投獄されていたクリスチャンのチルバ氏が大統領になったこともあって教会には多くのキリスト教信者が集っていました。これは素晴らしいことではありましたが、私の出番はあるのかという疑問が生じました。伝道するための手段として医師になろうと12歳からの意気込みがあったのにそれが失われてしまったと感じたのです。

 

本来ならば福音が伝わっているのを喜ぶべきなのに自分がザンビアにいる存在意義がないのではと勘違いをしたのです。なすべきことは山程あるのに、当時の私の信仰は「マニュアル的」だったと説明すれば適当かどうかわかりませんが、いわゆる「未信者にキリストを伝え、教会に誘い、聖書の学びをし、洗礼に導くこと」が私の宣教の唯一の方法だと信じていたからです。それが全てではないということに気づくには17年ほどの長い年月がかかりました。

 

私の夢は、幼い時から31年後に叶えられ,ザンビアというアフリカの地にやっとたどり着いたのですが、数ヶ月のうちに絶望をしてしまったのでした。(つづく)

 

後奏:

 

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